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不機嫌な天使
   
photo by Robert Knight
  プロローグ

映像の中のジミ・ヘンドリックスは、いつもイラついている。

口元に皮肉っぽい笑みをうかべ、大きな瞳は妖しくギラギラと輝く。

デビューして間もないモンタレー、死を迎える直前のワイト島。
時と場所が変わっても、ジミの表情は変わらない。

そして、イライラが絶頂に達すると、ギターとFUCKしてしまう。

ジミは何に対して、そんなにイラついていたのだろうか?

女性関係?
バンドの力量?
マネージメント?

いや、そうではない。
ジミは自分を取り巻く環境に対して、イライラしていたわけではない。

彼の刃は、自分自身に対して向けられていたのだ。

「オレの頭の中に棲んでいる悪魔を、追い出してくれ!」
ジミは泣きながら、ガールフレンドに訴えたという。

もちろん彼の頭の中に、悪魔など棲んではいない。

ジミの頭の中を支配していたのは、音楽の小宇宙。
そこには、混沌として実態のない宇宙が、限りなく広がっていた。

しかし、彼は、それを表現する術を知らなかった。
いや、もっと正確に言えば、頭の中に描いている音を100%表現できなかった。

ジミはそんな自身のふがいなさに対して、いつもイラついていたのだ。
「こんなもんじゃない!」
「オレが言いたいことは、こんなもんじゃないんだ!」

人々はジミ・ヘンドリックスを語る時に、賞賛と畏敬の言葉しか使わない。
しかし、ジミが表現したものは、彼の頭の中のほんの一部なのだ。

もしジミが、頭の中に描いている音を100%表現できたとしたら。
きっと、想像を絶するような音楽が現出していただろう。

しかし、それでもジミはイライラしたのではないだろうか?
なぜなら、彼は今以上に、人々から理解されなかったはずだから。

 

 

 

 
photo by Robert Knight
 

1、『ライブ・アット・フィルモア・イースト』

 1999年の冬のことだ。
 ジミ・ヘンドリックスの『ライブ・アット・フィルモア・イースト』がリリースされた。私は、期待に胸をふくらませて、CDショップへ駆け込んだ。
 それまでの私は、数え切れないほどリリースされている、ジミの未発表作品や編集盤を、すべて無視し続けていた。「ジミ本人がリリースの意志を持たなかった作品など、聴くだけ時間のムダだ。」これが、私の持論である。しかし、今回だけは例外だった。私はCD発売の初日に、このアルバムを入手したのだ。
 なぜだろうか?
 それは、『ライブ・アット・フィルモア・イースト』が、『バンド・オブ・ジプシーズ』の完全版だったからである。

 『バンド・オブ・ジプシーズ』は1970年、ジミの生前に発表されている。つまり、正式な、ジミのオリジナル・リリース・アルバムのひとつである。しかし、途中でフェイド・アウトされている曲があったり、ミックスが今一歩であったり、どうしても不完全なアルバムという印象を拭い去ることができない。どうも、ジミは、レコード会社との契約の関係から、やむなくこのアルバムを発表した、というのが真相のようである。
 しかし、このアルバムの持つ、歴史的な意義と音楽的な価値は、非常に大きなものだ。なぜなら、ジミが、ノエル・レディングとミッチ・ミッチェルからなるエクスペリエンスを解散し、ビリー・コックスとバディ・マイルスととともに結成したバンド・オブ・ジプシーズで残した、唯一の公式録音であるからだ。
 私は、バディ・マイルスがドラムを叩いてることに、非常に大きな関心を持っていた。
 なぜなら私は、ミッチ・ミッチェルのドラミングが、あまり好きではなかったからだ。

 

 

   
photo by Robert Knight
       

2、エクスペリエンス

 ジミ・ヘンドリックスは1966年、シングル「ヘイ・ジョー」でデビューした。
 デビュー時のバック・アップは、ノエル・レディング(ベース)とミッチ・ミッチェル(ドラムス)。3人は、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを名乗った。この時、ジミは24歳、ノエル21歳、ミッチにいたってはわずか19歳だった。この人選は、マネージャーのチャス・チャンドラー(元アニマルズのべーシスト)によるものといわれている。

 ノエルは、ニュー・アニマルズの募集に応じてやって来た、ギタリストであった。本人には申し訳ないが、ノエルのベース・プレイは、それほど印象に残るものではない。やはり、急造ベーシストだったのだろう。このノエルが、チャスにベースの指導を受けている(らしい?)写真を見たことがある。そこで彼は、どう見てもチャスに怒られているのだ。自らベースをプレイするチャス。ショボくれたような表情でうなだれるノエル。この印象的なシーンから、ノエルのバンドにおける地位が推察される。

 これに対して、ミッチはその初期から、若さに似合わぬ豪放なスティックさばきで、世間の注目を集めていた。彼のドラム・キットは、ジンジャー・ベイカー(クリーム)やキース・ムーン(ザ・フー)と同じ、ツイン・バス(バスドラムが2つある)のセット。これをミッチは、文字通り叩きまくるのだ。
 1960年代後半の、イギリスのドラマーの主流は、“ジャズあがり”である。とにかく、音の隙間という隙間に、可能な限りタムやスネアのロールを叩きこむ。前述のジンジャー・ベイカーやキース・ムーンはもちろん、B・J・ウィルソン(プロコル・ハルム)、マイケル・ジャイルス(キング・クリムゾン)、ロバート・ワイアット(ソフト・マシーン)。時代を代表するドラマーのほとんどが、このスタイルである。いわゆる、押し殺したようなビートを叩き出すタイプのドラマーが主流になるのは、この後ファンク・ミュージックのスタイルが確立してからのことである。

 エクスペリエンスのサウンド、とくにライブにおけるサウンドは、非常に奇異なものである。耳に入ってくるのは、ギターとドラムの音ばかりだ。ジミのギターの呼びかけに対して、ミッチのドラムが応じる。いわゆる、ギターとドラムのコール&レスポンスが、全編を支配している。他のパートは、添え物程度なのだ。
 ツイン・バスのキットを使用しているため、ミッチはほとんどハイハットを使わない。これも、エクスペリエンスのサウンドを独特なものにしている、ひとつの要因だ。ドラマーは普通、ハイハットを使ってカウントを取る。ところがミッチは、ほとんどこれをやらない。カウントを取らずに、イキナリ入ってしまうという荒技を多用するのだ。ジミのギターが「ギャッ、ギャン!」、するとミッチが「ドコドコ、ドコドコッ!」という具合にだ。

 しかし、そんなジミとミッチだが、お互いのリズム感覚がピッタリ合っているわけではない。
 比較的タメの効いたジミのリズム感覚に対し、ミッチはツッコミ気味に走るリズム感覚を持っているのだ。この2人が、リズムを引っ張ったり引っ張られたりしながら、微妙にウネるリズムを生み出している。けっして、正確に重なったリズムではないのだ。現代風の言い方をすれば、ポリリズムの一種といえるかもしれない。しかし、これが、エクスペリエンス特有のリズムなのだ。これがなければ、エクスペリエンスらしさがなくなってしまう。
 バンド全体が、モタついたりハシったりしながら、各曲はクライマックスを迎えるのだ。

 私には、これが心地悪いのである。
 ジミのようにリズム感覚抜群のミュージシャンが、どうしてこんなにヨレたリズムを生み出すのか、私には理解できなかった。「もっと、タメを効かせられて、シンプルなプレイをするドラマーと組めばよかったのに。」
 私のそんな不満を解消してくれるドラマーが、ジミの周りに1人だけ存在していた。それが、バディ・マイルスだ。「ルーム・フル・オブ・ミラー」を初めて耳にした時、そのあまりにもハマッているリズムに驚いた。それから私は、バディが叩いている作品を、片っ端から聴いてみたのである。

 

 

 
photo by Robert Knight
photo by Robert Knight

3、バディ・マイルス

 『ライブ・アット・フィルモア・イースト』は、そんな私の欲求を、100%満たしてくれる内容だった。
 バディ・マイルスは、私の期待通り「ピシッ!」と、引き締まったリズムを叩き出していた。軍隊時代からジミの親友である、ビリー・コックスのベースは地を這うようにヘヴィーで、バディのドラミングと絶妙のコンビネイションを生み出している。そして、ハウリングやフィードバックを縦横に使いながら、ジミがヨガりにヨガりまくっても、バディはリズムをキープし続けるのだ。ジミといっしょにヨガってしまうミッチのプレイとは、およそ対極の位置にあるといってもよいだろう。このアルバムでは、ジミの持つ黒人らしさが、非常に理想的な形で際立っている。シャープでソリッドなファンキーさは、ジミが黒人ゆえに生み出すことができる感覚である。

 バディ・マイルスは、ジミの4歳年下。1946年生まれである。
 わずか13歳の時に、すでにプロとして活動していたといわれているから、天才少年の部類に入るだろう。1965年にはウィルソン・ピケットのバックを経てマイク・ブルームフィールドらとエレクトリック・フラッグを結成。一躍、その名を知られるようになった。
 バディは、ドラムだけでなくヴォーカルの実力もかなりのものである。そこで、ジミがずっとコンプレックスを抱き続けた、歌への不安を解消してくれるはずなのだ。私には、バディ・マイルスは、ジミにとって理想的なパートナーと思われた。
 しかし、バンド・オブ・ジプシーズは、『ライブ・アット・フィルモア・イースト』を収録してからわずか3週間後に、突如解散してしまっているのだ。理由は、ジミがこのバンドの演奏に満足できなかったため、といわれている。
 なぜ?

 バンド・オブ・ジプシーズを解散したジミは、ふたたびミッチ・ミッチェルを呼び戻している。そして、ビリー・コックスとともに、ニュー・エクスペリエンスを結成。結局、このライン・アップが、ジミの死まで行動をともにしている。
 どうして、ジミ・ヘンドリックスは、そんなにミッチ・ミッチェルにコダワったのであろうか。
 その答えは、意外なところから得られた。

 

 

   
photo by Robert Knight

4、ブラック・ミュージックのカテゴリー

 『モントルー・ジャズ・フェスティバル2001』が、BSで放映された。
 その中で、復活したリヴィング・カラーが、ジミの「パワー・オブ・ソウル」を演奏した。この曲は、『ライブ・アット・フィルモア・イースト』にも『バンド・オブ・ジプシーズ』にも収録されている。

 リヴィング・カラーは、1988年にデビューした、黒人4人組のヘヴィ・メタル・バンドだ。一時、“黒いレッド・ツェッペリン”などと形容されたほど、ソリッドでヘヴィなサウンドが売りだった。ヴァーノン・リードのギターは、ずいぶんジミとは違うスタイルだが、原曲の持つ雰囲気をみごとに再現していた。そして、この演奏は、たくさんの音楽ファンから絶賛を浴びた。
 私も、彼等の演奏に深い感銘を受けた。

 「やっぱり黒人だなぁ…、ジミ・ヘンドリックスそっくりじゃないか。」
 その瞬間、私はあることに気がついた。
 「あっ、そうか!」
 「そうだ、そういうことだったんだ。」

 リヴィング・カラーは、エクスペリエンスの作品でも、ここまでカバーできるだろうか。
 いや、できるはずがない。なぜなら、ミッチ・ミッチェルが叩き出すのは、白人のリズムだからだ。彼のドラミングからは、ブラック・ミュージックの匂いが微塵も感じられないのだ。そう、ジミ・ヘンドリックスは、自分の作品からブラック・ミュージックの匂いを消し去るために、ミッチ・ミッチェルのドラミングを必要としていたのだ。

 リヴィング・カラーは、黒人バンドにしては珍しくヘヴィ・メタルを標榜していた。しかし、そのファンキーなリズムからは、間違いなくブラック・ミュージックの匂いがただよってくる。これは肌の色と同様、消し去ることができないものだ。
 バディ・マイルスは、すぐれたミュージシャンである。しかし所詮、 ブラック・ミュージックのカテゴライズからはみ出すほどの独創性は持っていない。タメを効かせて、ハイハットを「ピシッ!」とキメまくるファンキーなドラミングはもちろん、ファルセットを生かした歌い方も充分ソウルフルである。そんなバディと組むことによって、ジミのサウンドは、ブラック・ミュージックにカテゴライズされる危険性が生じてしまう。ジミはそれを嫌がったのだろう。ヴォーカルもとれるバディの器用さは、ここではアダになってしまうのだ。

 サイデケリック・ミュージックを隠れミノにしてはいるが、ジミも本質的にはブラック・ミュージックにアイデンティティを求めている。その相棒が、コテコテまっ黒のバディ・マイルスでは、そこから脱け出すことができなくなってしまうだろう。ジミの独創性は、ひとつのカテゴリーにおさまってしまうほど、小さなサイズではない。そしてそのことは、ジミ本人も自覚していたのだ。ジミは、ミッチ・ミッチェルの型破りなドラミングがあってはじめて、無限の領域へのパスポートを手にすることができるのだ。
 ロックの黎明期にすでに、既成の格式を破壊することがロックの本質であるということを、ジミは本能的に感じ取っていたのだろう。この直感は、天性のなせる技である。

 ようやく私は、ジミ・ヘンドリックスの、曖昧でカオスティックな音楽性の一部を、解明することができたようだ。しかし、ジミの全貌はなかなか見えてこない。死後30年以上を経過しても、この程度なのである。
 ジミが提示した、正体不明の音楽の全貌が解明されるのは、いったいいつのことだろうか。いや、永遠に解明されることはないのかもしれない。しかし、ジミが提示したものの中に、ロックの本質と思える妖しい光が輝いていることだけは、疑いようのない事実である。

 

photo by Robert Knight