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コレクターにならずに、ユーロ・ロックを聴く方法(第6回)
PFM(PREMIATA FORNERIA MARCONI)
 

 PFMは「ぷれみあーた・ふぉるねーりあ・まるこーに」の略であると、スラッと言えることは、ユーロロック・ファンの初級検定みたいなものである。「ぷれみあーた・ふぉるねーりあ・まるこーに」の意味するところは、「選ばれたマルコーニという名のお菓子屋さん」だそうだ。北イタリアのブレッシアには、マルコーニというチェーン店があったらしい。しかし、どうしてこのような名前にしたのかは不明である。
 このお菓子屋さんを、一躍ワールドワイドで有名にしたのは、1973年夏のレディング・フェスティバルだった。PFMが出演する直前まで、大英帝国の観客たちは地面に寝そべって欠伸をしていたそうだ。「イタリアの田舎から出て来たって~?ご苦労なこった…。」思いやりなど、微塵も感じさせない露骨な態度。これで演奏がつまらなかったら、「帰れ」コールの嵐になることは必定だ。情け容赦のない、肉食狩猟民族の世界である。
 ところが…。
 PFMが演奏を終える頃になると、観客たちはみなスタンディングでイケイケ状態。しまいには、「もっと、やれー!もう1曲、やってくれー!」の大合唱が起こったというのだから、いったいどんな演奏を披露したのだろうか?想像を絶するレベルであったことだけは、間違いない。こうしてPFMは、その年の注目の的になったのである。
 その後、PFMはマンティコア・レーベル
(注1)と契約し、元キンクリ(注2)のピート・シンフィールドのプロデュースにより、アルバム『幻の肖像(PHOTOS OF GHOSTS)』を発表した。クラシックと地中海沿岸の民謡をベースにしたエキゾティックなメロディ、赤鬼が嘆くキンクリのデビューアルバム(注3)をほうふつとさせるサウンド、本場イギリスの1流ミュージシャンと比較してもまったく遜色のない圧倒的な演奏テクニック、これらが見事に一体となった『幻の肖像』は全世界でブレイクした。もちろん、我が国とて例外ではなかった。こうして、第1次ユーロロック・ブームが到来した。プログレ・ファンの目は、 イタリアに集まったのである。

 

 

『『幻の肖像(PHOTOS OF GHOSTS)』
 

 『幻の肖像』が発表されてしばらくすると、「PFMはイタリア本国で既に2枚のアルバムを発表しており、『幻の映像』の収録曲はそこから選曲されたものである。当然、その2枚のアルバムはイタリア語で歌われている(『幻の映像』は英語)が、そちらの方が本来のPFMの素朴な姿を味わえる。」という情報が、どこからともなく流れてきた。しかし、当時の流通機構は、今ほど発達していなかった。ロック後進国イタリアのマイナーレーベルのレコードなど、簡単に入手できるものではなかったのだ。そこで生まれた企画が、「原盤買い付けツアー」。そう、イタリアまで行って、現地のレコードを買ってこよう、というものだ。PFMをはじめ、数々のイタリア産ロックのカタログを手に、マニアたちは日本を旅立った。
 しかし、「原盤買い付けツアー」は、“宝の山”というワケにはいかなかったようだ。
 我々はつい、イタリアに行けばイタリアのロックのレコードが普通に置いてあるものと錯覚しがちだが、そんなことはないようである。やはりイタリアあたりでも、主流は英米のロックで、自国産はマイナーなのである。置いてある店も限られている上に、なによりもカンジンな“音”についての情報がまったくない。バンド名とジャケットのセンスだけで大量のレコードを購入したものの、日本に帰って聴いてみたらほとんどがスカだった、なんてことがザラにあったという。

 

 

 さて、PFMのイタリアにおけるデビュー・アルバムとセカンド・アルバムであるが、今では容易に手に入れることができる。たしかに、イタリア語の方が、彼等の曲調にピッタリと合っているだけでなく、より『宮殿』(キンクリのデビューアルバム)に近い音がする。やはり、オリジナルの持つ輝きは、何物にも変え難いのだろう。
 PFMは、フランコ・ムッシーダ(G&Vo)、フラヴィオ・プレモリ(Key&Vo)、ジョルジョ・ピアッツァ(B)、フランツ・ディ・チョッチョ(Ds)の4人が在籍していたクウェッリというバンドに、マウロ・パガーニ(ヴァイオリン、各種管楽器)が加入した1971年に誕生した。メンバー全員が高度なテクニシャンであるのは、いずれもイタリアの売れっ子スタジオミュージシャンであったことによるものだ。新興レーベルのヌメロ・ウーノから、ファーストアルバム
『幻想物語(STORIA DI UN MINUTO:直訳すると“1分間の物語”)』を、1972年の3月に発表。同年の暮れには、セカンドアルバム『友よ(PER UN AMICO)』を発表。イタリアにやってくるイギリスのロックバンドの前座をつとめ、腕を磨いていたという。
 1973年に全世界に向けて発表された
『幻の映像』は、『友よ』の全曲に『幻想物語』から1曲と新曲1曲を追加し、ピート・シンフィールドが歌詞を英訳して、イギリスでレコーディングされたものである。
 続いて1974年には、
『蘇る世界(THE WORLD BECAME THE WORLD:原題L'LSOLA DI NIENTE)』を発表。前作に劣らない叙情的な音で、PFMはその地位を確固たるものにした。
 
『LIVE IN USA』(1974年)、『CHOCOLATE KINGS』(1975年)で頂点を極めた後、PFMは突如としてアメリカナイズされた音に路線変更し、多くのファンを失望させてしまった。後に、原点回帰を目指してふたたび初期の音に戻ろうとしたが、主要メンバーの脱退等によりかつての栄光を取り戻すことはできなかった。ちなみに今でも、PFMは活動を続けている。
 
『幻の映像』は、ユーロロック入門編として最適である。ユーロロックに興味のある方は、まずこれを聴いてみるとよい。そして、何か感じるところがあったら、イタリア語のオリジナルに挑戦してみることだ。何の抵抗もなくイタリア語のPFMを聴くことができたら、あなたはもう立派なユーロロック・ファンである。
 PFMの功績は、英米支配のロックシーンにおいて、英米以外の国にも素晴らしい音楽が存在していることを全世界に知らしめたことだろう。それは、当然、我が国にも当てはまるハズである。自国の音楽に、もっと誇りを持たなくては…。

PS1:
初期の主要メンバー、マウロ・パガーニのソロ・アルバム
『地中海の伝説(MAURO PAGANI )』は、PFMをよりマニアックにしたような内容である。地中海民謡に興味のある人には、こちらをおススメする。音のイメージとしては、PFMよりもむしろアレアに近い。ちなみに、マウロ・パガーニはご覧の通りの美青年である。↓

PS2:
防虫剤のような名前のギタリスト(?)、フランコ・ムッシーダはユーロプログレ系ギタリストの典型的なタイプである。ブラック・ミュージックの影響を微塵も感じさせない、エレキよりアコギが得意で、あまりチョーキングをしない、豪快なビブラートをしない、エレキなのに控えめな音量で、いつも左手の親指がネックの後ろにある…、等々の特徴を持っている。

(注1) マンティコア・レーベル
EL&Pが創設したレーベル。PFMがスカウトされたのは、EL&Pと名前が似ていたから、というわけではない。

(注2) キンクリ
クリキン(クリスタル・キング)の誤植ではない。ロバート・フリップ尊師率いる、紅軍団の略。この軍団について多くを語ることは、たんへん危険である。

(注3) キンクリのデビューアルバム
言わずと知れた、泣く子がもっと泣く名盤、『クリムゾン・キングの宮殿』のこと。初期PFMにおけるメロトロンや管楽器の使い方は、紛れもなくこのアルバムの影響によるものだ。

 

 

   
↑イタリア原盤の、ファースト・アルバム『STORIA DI UN MINUTO』
↓同じく、セカンド・アルバム
『PER UN AMICO』