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web-magazine GYAN GYAN

           
時間を封印した飛行船
1、ジョン・ボーナムの死

 1980年9月25日、“レッド・ツェッペリンのドラマー、ジョン・ボーナム急死。”
 この報道は、全世界の音楽ファンに衝撃を与えた。

 当初、死因については、さまざまな憶測が立った。この時期になると、ロック・ミュージシャンの死因には、すでに定番(?)があったのだ。まず薬物原因説、そして自殺説。このふたつを最有力候補として、マスコミが騒ぎ出す。果ては、他殺説まで飛び出す始末だ。しかし、10月8日付で発表された「デイリー・エクスプレス」誌の記事は、それらすべてを一蹴してしまった。
 死因は、過度のアルコール摂取による、呼吸不全。
 つまり、単なる事故死であったのだ。

 死に至る経緯は、以下のようなものである。

 1980年9月24日、レッド・ツェッペリンのメンバーは、リハーサル・スタジオに集合した。
 この時すでに、ジョン・ボーナムは、“千鳥足状態”であったらしい。
 付き人の証言によると、ジョンはリハーサル前の昼食時に、通常の4倍もの濃さのウォッカ・オレンジを4、5杯飲んでいたという。
 そして、リハーサル・スタジオでも飲みっぱなしだったジョンは、その後ジミー・ペイジの自宅に立ち寄り、そこでも1時間に2、3杯のペースで飲み続けた。そして、午前零時を過ぎた頃に、ジョンは泥酔状態のまま眠りこんでしまった。これを、付き人がベッドまで運び、泥酔者に対する的確な処置(横向きに寝かせ、頭を固定する)を施し、部屋を出た。
 異変に気がついたのは、翌朝のこと。ジミー・ペイジ宅を訪問したレッド・ツェッペリンのロード・マネージャー、ルイス・ルフェーブルがジョンを起こしに行き、すでに息をしていない状態の彼を発見。急いで病院へ搬送したが時すでに遅く、ジョンがふたたび目覚めることはなかった。
 ジョンの直接の死因は、自分の吐瀉物が気管に詰まったための窒息死。泥酔して意識がなかったため目が覚めず、死に至ったという。ちなみに、通算12時間でウォッカ・オレンジを40杯も飲んだという、死亡時のジョンの血中アルコール濃度は、通常の人間の3.5倍もあったそうである。大酒呑みの、ジョン・ボーナムらしい最期であった。

 マスコミは、ジョンの死因が特定されると今度は、後任ドラマーの人選について騒ぎ立てるようになった。
 キャリアとテクニックでは、カーマイン・アピスが“本命”とされ、“対抗”として若手No1のコージー・パウエルの名前が上げられていた。その他には、サイモン・カーク、エインズレー・ダンバー、キッスのピーター・クリス…。

 しかし、レッド・ツェッペリンは、同年12月4日に、以下のような声明を公式発表した。
 「我々の敬愛すべき友人の死に際し、彼の遺族へ深い哀悼の意を表わすとともに、我々と我々のマネージャーとで共有していた調和と連帯感を鑑みた結果、今後活動を続けていくことは不可能との結論に達したことを、ここに表明するものであります。」

 これにより、レッド・ツェッペリンは、1968年の結成以来12年間にわたる、栄光の歴史に終止符を打った。
 70年代を象徴するロック界の王者は、80年代の幕開けとともに静かに身を引いてしまったのだ。
 彼等はまさに、70年代を熱く駆け抜け、そして燃え尽きた。

 

 
photo by Robert Knight
 
photo by Robert Knight
  2、『コーダ(最終楽章)』

レッド・ツェッペリン解散の報に接した我々は、彼等の決断に多少のとまどいを覚えた。
 なぜなら、レッド・ツェッペリン同様、個性派ドラマーのキース・ムーンを失ったザ・フーが、後任に元フェイセズのケニー・ジョーンズを加え、グループを存続させていたからだ。(キース・ムーンは、1978年、睡眠薬を多量に摂取して死亡。)
 「レッド・ツェッペリンはなぜ、後任を探してグループを存続させないのだ?」ファンの間で、このような疑問がささやかれるのは、当然のことと思われた。
 しかし、まもなく我々は、自分達の認識の甘さを思い知らされることになった。

 1982年、突如として、1枚のアルバムが発表された。
 『コーダ(最終楽章)』である。
 『コーダ(最終楽章)』は、『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』製作時のアウト・テイクを中心に、ジミー・ペイジが編集した未発表曲集で、レッド・ツェッペリン最後の公式オリジナル・アルバムである。
 アルバムは、ジョン・ボーナムのドラム・ソロをフューチャーした、「ボンゾズ・モントルー」をメインとして構成されている。「ボンゾズ・モントルー」は、もしジョンが存命していたら、「モビー・ディック」に代わって、ライブで演奏されたかもしれないナンバーだ。その圧倒的な音圧のドラム・ソロは、他のドラマーでは真似る事ができない、ジョンの独壇場である。

 しかし、私が注目したのは、「ボンゾズ・モントルー」ではない。
 その後に収録されていた、「ウェアリング・アンド・ティアリング」である。
 「ウェアリング・アンド・ティアリング」には、『フィジカル・グラフィティ』以降の後期レッド・ツェッペリンが確立した、特異な作曲手法が100%凝縮されている。それは、“印象的なリフを中心とした、ひとつのパターンだけで曲を成立させてしまう”、という手法である。

 様式化した作曲手法には、次のようなパターンがある。
 ギターやキーボードを中心としたリフではじまり、1回目のメイン・メロディ、そしてサビへと続く。そこでふたたびリフが登場し、2回目のメロディ・ライン、そしてサビ。ギター・ソロやキーボード・ソロが入り、ふたたびリフ。そして3回目のメロディ・ラインの後、サビを数回繰り返してフェイド・アウト…。みなさんは、日常耳にしている、実
に多くの楽曲が、ほぼこのパターン、もしくはこのバリエーション・パターンを踏襲しているということに、気がつくだろう。
 ところが、レッド・ツェッペリンは、『フィジカル・グラフィティ』あたりから、この既成パターンを破壊しているのである。

 「ウェアリング・アンド・ティアリング」には、サビの部分がまったくない。リフも独立したものではなく、それ自体を含んだひとつのパターンを、数回繰り返しているだけである。この種のパターンのナンバーは、『聖なる館』あたりから見られるようになったが、『フィジカル・グラフィティー』にもっとも多く収録されている。
 「カスタード・パイ」、「トランプルド・アンダー・フット」、「聖なる館」…。『フィジカル・グラフィティー』のメイン・ナンバーのほとんどには、「天国への階段」のような劇的な構成が見られない。実にクールに、延々ひとつのパターンを繰り返しているだけである。この異様さに気がつかないあなたは、すでにジミー・ペイジの術中に見事にはまっているのだ。

 言葉で表現すると、それほど難しいことのように感じられないかもしれないが、レッド・ツェッペリンのような手法を使って、リスナーを飽きさせずに惹きつけておくことは、実は非常に難しいことだ。彼等のように、強烈な個性を持ち合わせていないミュージシャンが、延々ひとつのパターンを繰り返し演奏したら、みなさんは睡眠の誘惑から逃れることができないはずである。
 ここで、「ウェアリング・アンド・ティアリング」を聴いてほしい。
 最後まで飽きずに、聴き終えることができるはずである。
 なぜだろうか?

 それは、ジョン・ボーナムの個性的なドラム・プレイが、リスナーを飽きさせることなく、グイグイとグループ全体を引っ張って行くからである。ジョンのドラムの一打一打によって、レッド・ツェッペリン・サウンドには躍動的が与えられる。ジョンのドラムは、単なるリズム・キープにとどまるものではない。本能を覚醒させる、魂の叫びだ。これにより、我々の脳は、アルファ波などを放出している暇がなくなるのである。
 『コーダ(最終楽章)』を聴き終えて、私は実感した。このようなプレイができる、ジョン・ボーナムのようなミュージシャンの後任など、他にいるはずがない。かつてマスコミが名前を挙げていた、当時のブリティッシュ・ロック界における、トップ・クラスのドラマーたちをもってしても、ジョンのプレイを再現することは不可能である。レッド・ツェッペリンが解散を決断したことは、当然のことなのだ。

 レッド・ツェッペリンは、ジョン・ボーナムの死によって、完結しなければならない。
 ここに至って、私はようやく彼等の決断を、スンナリ受け入れることができたのである。

 ところで、このような角度からレッド・ツェッペリンを分析し始めた私は、このグループにもうひとり、強力な躍動感を発散しているミュージシャンが存在していることに気がついた。
 それは、ロバート・プラントである。

 

photo by Robert Knight  
photo by Robert Knight  
photo by Robert Knight  
  3、ふたりの“規格外”ミュージシャン

 ロバート・プラントは、シンガーというよりも、ヴォーカリストという呼称がよく似合う。単なる“歌い手”ではなく、“声という楽器を演奏するミュージシャン”というイメージが強いのである。
 『聖なる館』以降、ジミー・ペイジは、このロバートの声にエフェクト処理を多用したため、スタジオ盤ではよけいに楽器的な声質が強調されている。この楽器的な声質により、ロバート・プラントは、『フィジカル・グラフィティ』以降の後期レッド・ツェッペリンが確立した、特異な作曲手法に対応できたのである。

 前述の、様式化した作曲手法というものは、ヴォーカリストが歌に感情移入をする過程で成立したと思われる。サビが必要なのは、もっとも主張したいことを、リスナーに強調するためである。ヴォーカリストは、メロディ・ラインを繰り返し歌いながら感情を高め、サビの部分でリスナーを巻き込みながら、クライマックスへと向かう。
 しかし、サビの部分がまったくないナンバーでは、このように一般的な手法は意味をなさない。つまり、通常のヴォーカリストでは、レッド・ツェッペリンのナンバーを歌うことができないのである。

 そんな、ロバート・プラントの個性は、ライブになると一層際立ってくる。
 ふつう、楽器奏者がアドリブ合戦をはじめると、ヴォーカリストは自分も何か楽器を手にするか、ステージ袖で控えているか、どちらかの対応をするものである。
 ところが、ロバートは、各メンバーの完全なソロ部分を除いて、常にステージ中央で仁王立ちをしている。そして、声を武器に、アドリブ合戦に参戦してくるのだ。これは、ロック界広しといえども、彼以外には真似のできない芸当である。

 ジョン・ボーナムの後任がいないのと同様に、ロバート・プラントの後任を探すこともまた、非常に困難なことである。

 そんな、ロバート・プラントとジョン・ボーナムは、レッド・ツェッペリンに加入する以前に、あるローカル・バンドに在籍していたことがある。
 ザ・バンド・オブ・ジョイ。
 バーミンガムを本拠地として活動していたこのグループは、モビー・グレイプやバッファロー・スプリングフィールドといった、R&Bやカントリー・ブルースのカヴァーを得意としていたらしい。
 ところで、このザ・バンド・オブ・ジョイ。近所での評判は、あまりよくなかったようだ。「音が大き過ぎて、うるさい。」というのだ。
 もっと具体的に言うと、シンガーとドラマーの音が大き過ぎて、バンドの音がよく聴こえなかった、ということらしい。この逸話は、ロバート・プラントとジョン・ボーナムがいかに“規格外”であったかを、よく物語っている。1960年代後半当時、彼等が収まることができるグループは、イギリスのどこにも存在していなかった。だからこそ、彼等はレッド・ツェッペリンであれだけの実績を残しているにもかかわらず、それ以前はほとんど無名の新人であったのだ。

 これに対して、ジミー・ペイジとジョン・ポール・ジョーンズは、レッド・ツェッペリン結成以前に、すでに多くの実績を残している。ジミー・ペイジは多数のレコーディング・セッションと、ヤードバーズの『リトル・ゲームス』。ジョン・ポール・ジョーンズも多数のレコーディング・セッションに参加。とりわけドノヴァンの『サンシャイン・スーパーマン』(ジミー・ペイジも参加)とローリング・ストーンズの『サタニック・マジェスティーズ』における仕事が、高く評価されていた。
 レコーディング・セッションで重宝されていた事実からわかる通り、ジミーとジョン・ポールは、レッド・ツェッペリン結成以前に、すでにトップレベルのプロ・ミュージシャンであったのだ。

 レッド・ツェッペリン・サウンドのカギは、2人の経験豊富なプロフェッショナルと、2人の“規格外”の新人という、タイプの異なる2組のミュージシャンによる、絶妙なバランス感覚にあったのだ。
 ふたりの“規格外”ミュージシャンがいなければ成立しない、“規格外”の楽曲。これが、レッド・ツェッペリン・サウンドの正体である。

 

       
photo by Robert Knight  
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    4、永遠の詩

 当時としては最高レベルの録音技術を駆使しているにもかかわらず、レッド・ツェッペリンのレコードにおける、各パートの音の分離度はあまりよくない。これだけの個性派ミュージシャンのプレイが、しっかりグループの4分の1からはみ出さないように作られているのだ。個人のプレイではなく、グループとしてのプレイを重視したサウンド作り。これも、レッド・ツェッペリン・サウンドの大きな特徴である。
 前述の「ボンゾズ・モントルー」は、ジョン・ボーナムが死んではじめて、レコード化されたのである。あのような事態にならなかったら、おクラ入りのままであった可能性も充分あるのだ。この事実は、ジミー・ペイジのグループに対する基本姿勢を、如実に物語っている。いかにすばらしいプレイでも、個人にスポットを当てたナンバーは、必然性がなければ、けっしてレッド・ツェッペリンのレコードに収録されることはなかったのである。
 こうして、レッド・ツェッペリンは、ロック・グループとしての究極のスタイルを提示しながら、創造と破壊の活動を繰り返した。そして、その役割を終えた。

 最後に、ジョン・ポール・ジョーンズの回想録から、レッド・ツェッペリン・サウンドが誕生した、たいへん象徴的なシーンを再現してみよう。

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 ジミーがテリー・リードから紹介されたというシンガー、ロバート・プラントは少しばかり生意気そうな雰囲気の男だった。ジミーから俺がスタジオ・ミュージシャンだと聞かされて、「どんなオジンが来るのか?」と興味津々だったらしい。俺は、予想とかなりかけ離れたルックスをしていたようで、彼は露骨に驚きの表情を表わしていた。
 その、ロバートが紹介したというドラマー、ジョン・ボーナムはかなり気さくな男のようだ。初対面の俺に対してもさかんに話しかけ、笑顔を絶やさない。

 狭いリハーサル・スタジオは、4人が入るとギューギュー詰めになってしまった。壁には、ビッシリとアンプが並べられている。ジミーがジョンのドラムの音のデカさを考えて、急遽取り揃えたものだ。しかし、数こそ多いが、どれも中古のオンボロ・アンプばかりだ。はたして、ちゃんとした音が出るのかどうか…。

 「さて、何をやろうか?」ジミーが俺に、話しかけてきた。
 「そうだね。何か、手頃な曲はあるかい?」俺が、答えた。

 ジミーは、ヤードバーズ時代のナンバー、「トレイン・ケプト・ア・ローリン」はどうか、と言ってきた。コードは、EとGとA。シンプルな構成の曲だ。

 簡単な打合せを済ませると、ジョンがカウントを取った。
 「ワン、ツゥー、スリー、!」

 次の瞬間、スタジオ中が轟音に包まれた。
 「こりゃ、いける!」メンバー全員が、そう確信した。

 ジミーは俺と視線を合わせると、片目をつぶってウィンクをしてみせた。
 ジョンが楽しそうに、ドラムを叩いている。
 そして、ロバートが不敵に微笑んだ。
 俺は、自分の選択が間違っていなかったことに、満足だった。
 そしてこの瞬間、俺達は栄光を手に入れたのだ。
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 時は無情に過ぎ去り、ふたたび取り戻すことはできない。
 花の盛りは短く、いずれは存在そのものが無に帰してしまう。
 
 しかし、レッド・ツェッペリンは、1970年代という時間を自身の中に封印したまま、永遠に輝き続けている。もし、その輝きが失われる時が来るとすれば、それはROCKそのものが終焉を迎える時だろう。

 

 

photo by Robert Knight
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