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ぼやけた輪郭のジョニー
   
 私は、23歳になった年の梅雨時に、1ヶ月ほど入院をした経験がある。1985年のことだ。病名は、左目の網膜剥離。そいつは何の前ぶれもなく、ある朝とつぜんやって来た。左目の視界の上の方に、うっすらと黄色い膜のようなものがかかったのだ。黄色い膜は何日たってもとれず、それどころかだんだん広がっていくようであった。眼科で有名な某大学病院の診察を受けると即日入院、重傷の網膜剥離であるとのことだった。1週間後に緊急手術をするといわれたが、担当医から「視力が回復するかどうかは、保証できない。」と言われ、さすがに目の前が真っ暗になってしまった。現在は私の妻になっている、当時のカノジョと悲嘆にくれてしまったものである。

 眼科の入院病棟というのは、「生きるか、死ぬか」とやっている他の病棟と違って、わりと緊迫した空気が感じられない所であった。首から下は何でもないわけだから、オヤツをバリバリ食べていたり、フラフラ歩いていたり、みんなけっこう気ままに一日を過ごしている。しかし重傷であった私は、担当医から「手術までの期間、トイレ以外はなるべくベッドから起き上がらないように。」と言われていたので、そういうワケにはいかなかった。おまけに、検査のために散瞳(薬を使って、瞳孔を開いたままの状態にしておくこと)されていたから、何を見ても焦点が合わず、暇さえあれば見舞いに来てくれたカノジョの顔はおろか、手元の新聞の字すら読むことがままならなかったのだ。これでは、歩けと言う方が無理な注文である。私はボヤけた視界の中、毎日ベッドの上で横になっているしかなかったのだ。失明の不安にさいなまれ続けた、孤独な私にとって唯一の慰めは、枕元に置かれた小さなラジカセだけであった。

 ちょうどこの頃、ティアーズ・フォー・フィアーズの「ルール・ザ・ワールド」が大ヒットしていて、ラジオをスイッチ・オンすれば、必ずどこかの局がこの曲をオン・エアしているというような状態だった。しかし、美しいメロディを持ったこの曲は、悲嘆に暮れた私の心を慰めてはくれなかった。むしろ、その逆であったと言った方が正解かもしれない。子供の頃、ものすごくキレイなメロディを聴くと、訳も分からずに悲しくなることがあったが、その感情に近いものが私を襲ったのである。私は、この曲が流れてくるたびに、ラジオのスイッチを止めたものだ。「これ以上、悲しみを増幅したってどうなる?」そんな気持ちでいっぱいだった。かといって、元気いっぱいのヤカマシイ曲はとてもじゃないが、うっとうしくて聴く気になれなかった。そんな私が、毎日飽きもせずに聴いていたのは、ジョニー・サンダースの「ハート・ミー」だったのである。

 私は、その頃すでにジョニー・サンダースの大ファンであった。ニューヨーク・ドールズ時代も、ハート・ブレイカーズ時代もである。しかし、私の彼に対する感情というのは、どちらかというとミーハー的なものであったらしく、音楽的に影響を受けたという自覚はほとんどなかった。私の嗜好の中でジョニーは、キース・リチャードやジョー・ペリーと同じ分類に属しており、それは理想的なロック・ギタリストのルックスと認識されていたようである。「ビート・クラブ」なる、スグレモノの秘蔵VTR集の中で、ニューヨーク・ドールズ時代のド長髪、赤いレザーの上下に黄色いギブソン・TVモデルをかまえた、“動く”ジョニーをはじめて見た時は、思わず「カッチョイー!」と絶叫してしまったものだ。そんなジョニーに、はじめて音楽的な接し方をしたのが、このアルバム「ハート・ミー」だったのである。

 「ハート・ミー」は、この年の春に日本で発売されたばかりのアルバムだった。ヤクで身を持ち崩し器材のほとんどを売り飛ばしてスッカラカンになっていたジョニー・サンダースが、レコード会社に借金までして手に入れたというオべイションのアコースティック・ギター一本でレコーディングした異色の作品である。オーヴァー・ダビングを極力抑え、ほとんどの曲が一発録り。そのため、どの曲にもダイレクトな感情があふれており、“人間”ジョニー・サンダースの等身大の姿が見事にとらえられているのだ。こんな作品は、長いロックの歴史の中でも他に例を見ない。まるで、独り言がレコードになったようなものである。ある意味で、こういう録音が許されるということは、ミュージシャンにとってものすごく幸せなことである。また、それを発売したレコード会社の決断も、並み大抵のものではないといえる。

 アルバムは、不慮の死を遂げたシド・ヴィシャスに、語りかけるようにして歌う「サド・ヴェイケイション」で幕を開け、ニューヨーク・ドールズ時代の曲やボブ・ディランのカヴァーなどを交えながら、ある時は自虐的に、またある時は内省的に、日常の何気ない話題からSF作品まで、およそ身の回りで思いつく限りの題材をモチーフとした、3分程度の短い曲がビッシリ並んでいる。特筆すべき点は、アルバム全体をある種の諦観というか、悟りの境地のようなものが支配していることで、「さすがに、地獄を覗いたことのあるヤツだなぁ。」とつくづく感心させられたものである。また、ジャケットの写真がサイコーで、かったるそーな、半分死んでいるような雰囲気は、アルバムの中身を充分過ぎる位に表現している。ただし、アコースティック・ギター一本とはいえ、ジョニーはブルース系のギタリストのようなテクニックなど始めから持ち合わせていないので、ただジャカジャカかきならしながら歌っているだけである。それは、「なにも無理してオベイションなんか買わなくても良かったんじゃないかい?」と思えるくらいの無芸さだ。しかし、このアルバムの一音一音が、この時の私の心を暖かくつつんでいったことは疑いようのない事実なのである。ノるかソるかの大手術を控え、“マナ板の上のコイ”状態だった私には、このアルバムの持つアキラメのムードというか、「どうにでも、なってくれよ。」という雰囲気がたまらなく居心地のよいものだったのである。

 この時私は、人が心身ともに落ち込んでいる時は、美しい音楽や元気な音楽が耳に届かないものだということを実感した。自分と同じ感情をもっているものだけが、気持ちを和らげてくれるのだ。慰めや叱咤ではなく、感情を共有することが大切なことなのだと悟った。「ハート・ミー」を録音した時のジョニーの感情は、ベッドの上の私の感情と同じ波長で重なりあったのかもしれない。こんな体験は、私の今までの人生で、この時だけのものであった。

 幸い、私の手術は成功し、視野のゆがみも残らずに視力を回復することができた。担当医は、「あなたが手術前の一週間、私の言うことをよく聞いて、おとなしく横になっていてくれたことがよかったのだ。」と言ってくれた。この件については、ジョニーに「THANK YOU」のひとつも言いたいくらいである。

 さらに私は、退院後の自宅療養の期間も「ハート・ミー」を聴きつづけた。ほとんど、一日中といってもよい程であった。ギターを手にして音をとってみたが、どの曲もおそろしくカンタンなコード進行で、30分もあればコピーできたことを覚えている。ほとんどの曲をソラで歌えたので、すぐに何曲かを弾き語りでできるようになった。アルバムのジャケットが気に入ったので、ヒマつぶしにスケッチ・ブックにデッサンしてみたりもした。ここまで聴き込んだアルバムであるにもかかわらず、体調が回復したある時期を境にプッツリと聴かなくなってしまったのだ。

 私は、これ以降「ハート・ミー」を聴いた記憶がまったくない。ただ一度だけ、ジョニーの訃報に接した時に針を落としたきりである。その時にしても、2、3曲目ぐらいで聴くのを止めてしまっている。なんだか、妙な孤独感のようなものに襲われて、聴き続けることができなかったのである。入院した時の感情が、記憶のヒダから蘇ってきたのかもしれない。

 今回、10年ぶりぐらいで「ハート・ミー」を聴いてみた。病院の消毒の匂いと窓から見えていた鉛色の梅雨空と、そしてボヤけた視界の中でいつも心配そうな顔をしていたカノジョの顔の記憶が蘇ってきた。なんだか、甘酸っぱい気持ちになってしまった。

 

 
初出誌:シンコーミュージックMOOK「ニュールーディーズ・クラブ」VOL26(1999年冬号)