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WHAT'S プログレ(プログレってなんだ?)


 

1、ピンク・フロイド(PINK FLOYD

 

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 プログレッシブ・ロックという単語は、ピンク・フロイドのサウンドを指す言葉として使われ始めたと言われています。

 つまり、ピンク・フロイドのサウンドから、プログレのルーツを見つけることができるのです。


 

 

 

 

 

 1967年に発表された彼らのファーストアルバム、『夜明けの口笛吹き/PIPER AT THE GATES OF DAWN』には、アメリカ西海岸で流行していたサイケデリック・ロックの匂いがプンプンしています。

 ピンク・フロイドだけでなく、ソフト・マシーンやザ・ムーブなど、当時のイギリスのロックバンドの中には、サイケデリック・ロックを取り入れようと試みる一派がありました。

 あまり大きな声では言えませんが、サイケデリック・ロックでは、ドラックが重要な役割を果たします。しかし、この件について、イギリスはアメリカほど大らかではありませんでした。

 そこで、ドラッグ抜きでトリップするために考えられたのが、ライトショウなどの映像効果による、視覚に訴えかける演出でした。

 ピンク・フロイドはその初期から、ライトショウの導入に熱心で、それが後年の壮大なステージ演出へ受け継がれて行きます。


 そして、視覚に訴えかけるサウンド創りの面で着目したのが、現代音楽への接近でした。


 そもそも、ピンク・フロイドというバンドを結成するきっかけになったのが、現代音楽に関する議論であったと言われており、この分野に対するメンバーの造詣はかなり深かったようです。

 ピンク・フロイドの現代音楽に対する接近は、1968年に発表されたセカンドアルバム、『神秘/SAUCERFUL OF SECRETS』で開花します。

 その後1969年には、バルベ・シュローダー監督の映画のサウンドトラック、『モア/MORE』を担当し、バンドサウンドを確立していきました。


 その過程で、彼らのサウンドを指す単語として生まれた言葉がプログレッシブ・ロックであるとすれば、プログレッシブ・ロックのルーツはサイケデリック・ロックであり、その発展の過程において、映像、現代音楽、が重要なキーワードであったと言えるでしょう。


 「ぷろぐれに うまれどこかと たずねたら にしかいがんの けむりのなか」




2、キング・クリムゾン(KING CRIMSON


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 ピンク・フロイドとともに、プログレッシブ・ロック創成期に重要な役割を果たしたのが、キング・クリムゾン(KING CRIMSON)です。


 

 

 

 

 

 

 彼らのデビュー・アルバム、『クリムゾンキングの宮殿/IN THE COURT OF THE CRIMSON KING』は、1969年に発表されました。

 このアルバムが、ビートルズの『アビーロード』をチャートから蹴落としたことはあまりにも有名な逸話ですが、キング・クリムゾンの場合、デビュー・アルバムの段階ですでに完成度の高いバンドサウンドが確立されていたのです。

 それは、比較的新しい時代の先進的なクラシック・ミュージックと、ジャズの要素をロックと融合させる試みでした。


 この試みは、たいへん新鮮な感動をもって音楽ファンに受け入れられました。

 そして文字通り、進歩的/前衛的なロックという本来の意味で、人々はキング・クリムゾン・サウンドを、プログレッシブ・ロックと呼んだのです。


 また、キング・クリムゾンは、その後のプログレサウンドをイメージづける、弦楽器のような音色でアンサンブルを埋め尽くす、メロトロンという鍵盤楽器を大々的に使用したことで有名です。

 プログレサウンドの進化は、鍵盤楽器の進化とシンクロするのですが、後にストリングスシンセサイザーの普及によって一般的になる、あの「サーッ」とした音色の原点が、このメロトロンなのです。


 キング・クリムゾンは、すでにデビュー・アルバムの段階で、プログレサウンドの具体化に大きく貢献したといえます。


 ところで私は、そんな彼らが真価を発揮したのは、ロバート・フリップが大きくバンドの路線変更をした6枚目のアルバム、『太陽と戦慄/LARKS TONGUES IN ASPIC』(1973年発表)から、『暗黒の世界/STARLESS AND BIBLE BLACK』、『レッド/RED』(両者とも1974年発表)へとつながる、再結成前の当時の表現で言うところの、後期キング・クリムゾンの時期であると確信しています。


 この時期の彼らは、決められた形式の演奏だけではなく、即興演奏、インプロビゼイションの手法を大々的に取り入れていました。


 これは、『太陽と戦慄』当時のメンバーだったパーカッショニスト、ジェイミー・ミューアが持ち込んだフリー・ジャズからの影響だと言われていますが、ロックとジャズの融合のみならず、ジャズが進化すればそれを取り入れ、バンドサウンドを一新するという、このロバート・フリップの姿勢こそ、プログレッシブ・ロックの神髄であると思います。


 一方、後期キング・クリムゾンの時期から、ロバート・フリップは雄弁に自己の音楽を語るようになりました。

 この「ロックについて語る」ことを始めたのは、どうやらロバート・フリップが元祖のようです。彼は自己の音楽コンセプトを言葉や文章で表現することと、音で表現することを同格に扱っていたのです。


 確固としたコンセプトに基づき、構築美と即興性が見事にバランスをとる強靭なサウンド。

 後期キング・クリムゾンは、プログレッシブ・ロックを一気に芸術の高みへと押し上げたのでした。


 「つうやくを なかせるほどの へりくつを てつがくなりと ひとはいうかな」 




3、エマーソン・レイク&パーマー(EMERSON LAKE & PALMER


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 デビューアルバムの時点で大きな成功をおさめたキング・クリムゾンですが、ロバート・フリップ以外のメンバーはより大きな成功を手に入れるべく、別のプロジェクトの構想を練っていました。

 

 

 

 

 

 

 それは、イアン・マクドナルドとマイケル・ジャイルス、そしてもう一人、グレッグ・レイクでした。


 グレッグ・レイクは、クリムゾンのアメリカツアーに同行した際に、どうしたらこの国で成功することができるか、具体的な案を考えついたと言われています。


 それが、『クリムゾンキングの宮殿』で構築した、クラシック・ミュージックとロックの融合を、よりポップな音で進化させること。

 さらに、そのサウンドをステージにおいて、強烈なパフォーマンスで表現することでした。

 グレッグ・レイクは、前者はもとより後者にも相当なコダワリを持っていたようで、ロバート・フリップがステージで椅子に座って演奏し始めたことについて、かなり強く異を唱えたと言われています。


 そして、彼の構想に従ってメンバーが集められました。

 当初はジミ・ヘンドリックスをギタリストとする計画があったようですが、最終的にはキース・エマーソンとカール・パーマーによる、ギターレスのトリオに落ち着きました。

 エマーソン・レイク&パーマー、EL&Pの誕生です。


 EL&P1970年に、『エマーソン・レイク&パーマー/EMERSON LAKE & PALMER』でデビュー、その後も『タルカス/TARKUS』、『展覧会の絵/PICTURES AT AN EXHIBITION』(ともに1971年)と、たてつづけに傑作を発表。

 日本では少女マンガに登場するほどになった、キース・エマーソンの派手なパフォーマンスもあいまって、グレッグ・レイクの予測通り、あっという間に不動の地位を確立したのでした。


 私は初めて彼らの存在を知ったとき、「ケンカ売ってんのかぁ?」っと

 つまり、ギターがロックのホームラン王だと思っていた少年にとって、ギター不在のEL&Pの編成はたいへん衝撃的であったというわけです。


 そして、いろいろとアルバムを聴くようになったのですが、『タルカス』を初めて聴いたときに、「これって、キーボードのハードロックじゃん」と思い、彼らに対する認識を改めた記憶があります。


 少し後になって、ジョン・ロードやケン・ヘンズレー、リック・ウェイクマンなどが、自身のバンドに大々的にクラシック・ミュージックの要素を持ち込みますが、どうやらその先駆的存在がEL&Pだったようです。


 つまり、彼らは後のプログレサウンドを決定づける、キーボードの役割を具体的に示したといえます。

 そして、それはハードロックの分野へも浸透していったのです。


 余談ですが、このようなクラシック・ミュージックの導入は、イギリス以外のヨーロッパ各国でもかなりの衝撃だったようで、ユーロロックの世界を見ると、イタリアから東ヨーロッパにかけて、EL&Pのクローンのようなバンドを多く見かけます。

 とくに、共産体制下の東ヨーロッパでは、唯一認められていたロックがプログレッシブ・ロックだったということですから、彼らの功績は非常に大きかったと言えるでしょう。


 さて、EL&Pは、クラシック・ミュージックとロックの融合によるひとつの様式を確立することに成功しましたが、そのようなバンドの宿命か、マンネリ状態に陥るのも早く、また新しい方向性の模索も思ったように行かず、結果的にバンドの寿命を短くしてしまいました。

 しかし、そのサウンドは確実に、その後のロックシーンへと受け継がれていったのです。


 「じみへんが きーすのよこで おとをだす そうぞうすると いとおそろしや」




4、イエス(YES


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 1970年代の後半、プログレッシブ・ロック・ファンに好きなバンドを尋ねると、多くの人がイエス(YES)の名前を挙げたものです。

 それほどイエスは、プログレッシブ・ロックを代表するバンドとして、世間に認知されていたのでした。


 

 

 

 

 

 イエスは1969年に、アルバム『イエス/YES』でデビューしました。

 このアルバムは、コーラスワークに後のイエス・サウンドを見ることができる程度で、全体的にはビートルズの影響を強く感じさせる内容の、まだ発展途上の段階の作品でした。


 イエスが大きく変貌するのは、この後、2回のメンバー・チェンジを経てからです。

 まず、ギタリストとして、スティーブ・ハウが加入。

 そして、キーボード・プレイヤーとして。リック・ウェイクマンが加入。


 この編成による作品として、1972年に『こわれもの/FRAGILE』と『危機/CLOSE TO THE EDGE』を続けて発表。

 ここで彼らが構築した音の世界は、たいへん独創的なものでした。


 イエス・サウンドの特徴は、変拍子を多用して、めまぐるしく展開する曲の構成にあります。それは、各演奏者が違う拍数でリズムを取りながら、キメの小節で全員が揃うという手法を得意としたため、「計算尺を使って作曲している」という噂が立ったほどでした。

 そして、そのような構成で、LPの片面を使ってしまうほどの長時間演奏を繰り広げます。それも、キング・クリムゾンのように、インプロビゼイションによるものではなく、計算され尽くしたアレンジによるものなので、驚かされてしまいます。

 LP時代の『危機』はA面に1曲、B面に2曲、

 『海洋地形学の物語/TALES FROM TOPOGRAPHIC OCEANS』(1974年)などは、2枚組でたったの4曲しか収録されていませんでした。


 さらに、そのような楽曲をライブでも再現してしまう、凄腕の演奏者たち。とくに、クラシック・ミュージックからの影響が強い鍵盤奏者、リック・ウェイクマンは、キース・エマーソンと並ぶ高い人気を誇りました。


 しかし、イエスの真骨頂は、これだけの演奏力を誇っていながら、楽曲があくまでもヴォーカル中心になっている点です。それはリード・ヴォーカルだけでなく、コーラスワークに至るまで細心のアレンジが施されている点に特徴があります。これはデビュー時から一貫したコンセプトです。


 また、これだけマニアックなコンセプトでありながら、カラッと乾いた明るい音であり、しかもメロディがポップであったため、アメリカやカナダといった、北米大陸で非常に高い人気を得たことも注目すべき点です。

 アメリカ人は、意外とプログレッシブ・ロック好きであることが証明されたわけですが、イエスが得意とした、透明感のあるコーラスワークは、1980年代以降のアメリカン・ハードロックに強い影響を与えているのです。


 私はといえば、『こわれもの』と『危機』はよく聴き、そのサウンドには限りなく魅了されたものの、カントリーやジャズからの影響が強い、スティーブ・ハウのギターにどうしても馴染めず、また、大好きなビル・ブラッフォード(ドラムス)の後任であった、アラン・ホワイトの妙に重たい音にも馴染めず、しだいに距離を置くようになってしまいました。


 しかしその後、再結成イエスのギタリスト、トレバー・ラビンが非常に気に入って、ソロ・アルバムを揃えたり、ユーロロックの世界で、イエスの影響を強く受けたバンドが、例外なくカッコイイ音だったということもあり、何度となく聴き直すことになりました。


 かつて、プログレッシブ・ロックを代表するバンドとして認知されていたイエスはジャンルを超えて、1980年代以降のアメリカンハードロックにおける、コーラスワークのアレンジに強く影響を与えました。そして、世界中にそのDNAをバラまいたのです。


「ぎたーなど どんなにはやく ひけたとて ひとのこえには かなうまい」




5、ジェネシス(GENESIS


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 ジェネシスのデビューは意外に早く、1969年にアルバム『創世記/FROM GENESIS TO REVOLUTION』でデビューしました。


 

 

 

 

 

 

 デビュー当時からすでに寓話的かつ幻想的な世界を展開していたのですが、あまり世間の注目を集めることもなく、しばらくは不遇の時代が続きます。

 その後、ギターとドラムスが、スティーブ・ハケットとフィル・コリンズになり、4枚目のアルバム『フォックストロット/FOXTROT』(1972年発表)を発表したあたりから、徐々に話題になるようになってきました。


 それは、『フォックストロット』の1曲目「ウォッチャー・オブ・ザ・スカイズ/WATCHER OF THE SKYS」に代表される、メロトロンの響きを生かした、クラシック・ミュージックからの影響が強いサウンド。(ジェネシスの最初のメロトロンは、キング・クリムゾンから中古で買ったという噂があります。)

 そして、ヴォーカリストである、ピーター・ガブリエルの圧倒的なライブ・パフォーマンスによってでした。


 「ウォッチャー・オブ・ザ・スカイズ」のライブ映像で確認できるように、真っ暗なステージに忍び寄るようなメロトロンの音、そして、蛍光塗料を塗った目の周りと手袋だけが光る、黒いマントに身をつつんだピーターがステージに登場する、まるで儀式のような雰囲気のライブ・パフォーマンスです。


 ピーターは毎回、凝った扮装と奇抜なメーキャップで現れ、演劇的なステージを演出し、ロック・ファンの話題になりました。


 余談ではありますが、1970年代後半、イギリスにおける高い評価と比較して圧倒的に日本で過小評価されているバンドとして、ザ・フーとジェネシスの名前がよく挙がりましたが、両者に共通していたのは、それまでに一度も来日していなかったこと。つまり両者とも、そのセールスポイントであった、ライブ・パフォーマンスを日本のファンの前で披露していなかったということだったのです。


 ジェネシスはその後、『月影の騎士/SELLING ENGLAND BY THE POUND』(1973年)、『ジェネシス・ライブ/GENESIS LIVE』(1973年)、『幻惑のブロードウェイ/THE LAMB LIES DOWN ON BROADWAY』(1974年)とアルバムを発表するたびに人気と評価を上げていきましたが、1975年にピーター・ガブリエルが脱退、バンドは存続の危機に直面しました。


 結局、ドラマーのフィル・コリンズがヴォーカルを兼任することになり、『トリック・オフ・ザ・テイル/A TRICK OF THE TAIL』(1976年)を発表し、健在ぶりをアピールしました。

 フィルの声質はピーターにそっくりであったため、ジェネシスは何の違和感もなくバンドを継続させていくことに成功したのです。


 その後のジェネシスは、ピーター在籍時のアングラ的な暗さを払拭し、世界中で評価されるようになり、売れるロックバンドとして認知されるようになったのです。


 注目すべきは、ピーター脱退後の『トリック・オフ・ザ・テイル』と、その次のアルバム『静寂の嵐/WIND AND WUTHERING』(1976年)です。


 この両者は、ジェネシス・サウンドを決定づけたアルバムとして有名ですが、この音こそ、いわゆるプログレサウンド。 クラシックなどのフレーズを多用する、キーボード主体の、ちょっと大げさだが耳ざわりのよい音、そのものです。

 そうです。プログレサウンドは、ジェネシスがバンドサウンドとして昇華し、売れることによって、全世界にバラまいたものなのです。


 1970年代後半にデビューするプログレ・バンド、そして1980年代のヘヴィメタル・バンド(とくにアメリカ系)に見られるプログレ的なアレンジには、ジェネシス・サウンドがDNAとして刷り込まれています。

 それは、『トリック・オフ・ザ・テイル』と『静寂の嵐』の2枚にすべて封じ込められていると言っても過言ではありません。


 こうして、進歩的/前衛的なロックを指す単語であった、プログレッシブ・ロック(PROGRESSIVE ROCKは様式化され、プログレサウンドとしてロックの血肉となったのでした。


「ぷろぐれを まとめあげたは だれなのか いたんじぬけた うれせんばんど」 



 

私のプログレ遍歴


 ここでは私のプログレッシブ・ロック遍歴について語らせていただきます。


 先に述べた通り、『狂気』をきっかけとしてピンク・フロイドの世界にハマった私ですが、彼らは別格として、5大バンドの中で強く影響を受けたのは、キング・クリムゾンとジェネシスです。


 キング・クリムゾンでは、『太陽と戦慄』、『暗黒の世界』、『レッド』…、いわゆる“後期キング・クリムゾン”と呼ばれた時期。

 ジェネシスでは、『フォックストロット』、『月影の騎士』、『ジェネシス・ライブ』、『眩惑のブロードウェイ』、『トリック・オブ・ザ・テイル』、『静寂の嵐』…、ピーター・ガブリエル脱退をはさんだ前後の時期、ということになります。

 彼らについてはバンド作品だけでなく、メンバーのソロ作品…、ブラッフォードやブランドX、それからピーター・ガブリエルのソロまで揃えたものです。


 EL&Pはギタリストがいなかったこと、イエスはギタリストに馴染めなかったことを理由にそれほど夢中にはなれませんでした。


 それ以外で、私が夢中になったのは、カナダのラッシュでした。


 ラッシュは『グレイス・アンダー・プレッシャー』で失望するまで、1982年発表の『シグナルズ』までの11枚は、どのアルバムもよく聴いたものです。プログレッシブ・ロックという観点でベストを選ぶとすればズバリ、1977年発表の『ア・フェアウェル・トゥ・キングス』でしょう。イエス+レッド・ツェッペリンとでもいいましょうか、硬質でメタリックな音がイカした作品です。


 5大バンド以外のイギリス勢では、周囲が騒いでいたキャメルにはそれほど興味を持たず、ヴァン・ダー・グラフ・ジェネレイターやソフト・マシーン、カーブド・エアーなどをよく聴きました。とくに、ヴァン・ダー・グラフ・ジェネレイターには、

“裏”ピーター・ガブリエルと言われたピーター・ハミルが在籍しており、その高い芸術性に感動したものです。


 そして、イギリスのマイナーどころを一通り押さえた後、アトール(フランス)の『夢魔』を聴き、イギリス以外のヨーロッパ各国のロック、いわゆる“ユーロ・ロック”の世界にドップリと浸ってしまったのです。

 これが19~20歳頃のこと。


 “ユーロ・ロック”については何度も言及している通り、ヨーロッパ各国にそれぞれの国ならではのロックがあるのでは?と思うのは、我々の勝手な思い入れであって、実際はイギリスやアメリカのメジャーどころに影響を受けたバンドが大多数を占めています。つまり基本的には、日本と同じような状況なのです。

 プログレッシブ・ロックという観点でヨーロッパを見た場合、ジェネシスやEL&Pの影響を受けたバンドが圧倒的に多く、とくにクラシック・ミュージックに人気があるイタリアなどでは顕著にその特徴が現れています。


 長年にわたって“ユーロ・ロック”を研究したおかげで、たくさんの駄作に泣かされながらも多くの孤高の存在に出会うことができました。

 これは私の大きな財産となっています。

 フランスでは、先に述べたアトール、マグマ、エルドン。

 イタリアでは、アレア、PFM、ゴブリン。

 ドイツでは、クラウス・シュルツ、アシュラ・テンプル、タンジェリン・ドリーム。

 オランダのフォーカス、トレース。

 スイスのアイランド、SFF。

 ベルギーのユニヴェル・ゼロ。

 カナダ東部フランス語圏のポーレン、マネイジュ。

 旧東ドイツのシュテルン・マイツェン…。

 1990年以降でも、イタリアのカリオペ、シンドーネ、北欧系でアネクドテン、アングラカルト、ホワイトウィロー、などなど…。

 すぐに思いつくだけでも、こんなに素晴らしいバンドの名前がスラスラと出てきます。


 余談ですが、この世界では、その個性的なサウンドのおかげで、イギリスのキング・クリムゾンに対して、フランスのマグマ、イタリアのアレア、ドイツのファウストを指して、“ヨーロッパの怪物四天王”などと呼んでおります。


 いずれにしても、プログレッシブ・ロック系のバンドは、それぞれの美意識を持っており、我々が「か~っ、プログレっていいなぁ」っと感じる瞬間は、その美意識が共感した瞬間であると言えます、

 ロックの美意識を追求したプログレッシブ・ロックは、いまやいずこに…。


 …などと言っていたら、また、ジェネシスのコピーバンドをやりたくなってきました。

 どうしよう。


(初出;ブログ『ROCKのある風景』2008.7.20、7.27、8.3、8.10、8.17、8.24)