web-magazine GYAN GYAN

 

 
         
カテゴリー別ハードロック・バンド名鑑(アメリカ編)
あなたの好みにピッタリのバンドは、どれでしょう?
YESの場合は
青い矢印、NOの場合は赤い矢印に進んでください。あるバンドに到達します。
到達したバンドのバイオグラフィと編集長のコメントは、ページの下半分にあります。
カテゴリーはあくまでも主観ですから、あまり深く考えないでください。(笑)

 

↓START アメリカのどこが好き?
         

イギリスの香りがする東海岸
   

プログレ大好き!
   

オルガンが好き!
 
マウンテン
                       
   
ボストン

ストーンズ大好き!

ハーモニカが好き!
       
J.ガイルズ・バンド
         
           
 
  エアロスミス
 

グラムロック大好き!
         
キッス
               
 

パンクロック大好き!
  ブルー・オイスター・カルト
                     
他をあたってくれ!

さわやか、オシャレな西海岸

キャリア豊富なミュージシャンは安心だ!

サンタナ大好き!
ジャーニー
                 
         

ボズ・スキャッグス大好き!
TOTO
       
     
   
   

ウィンター・ファミリー大好き!
モントローズ
       
     
 
他をあたってくれ!

革新派はカッコイイ!
 
ヴァン・ヘイレン
         
     
 
 

まずルックスでしょ!
エンジェル
               

アメリカそのもの、大陸中部

車やバイクが好き!

マッチョ好き!

凶暴なヤツは1人で充分だ!
テッド・ニュージェント
                   
         

メンバー全員が凶暴でもイイ!
グランド・ファンク・レイルロード
         
     
カクタス

ノンビリ歩こうよ~
         
ジェイムス・ギャング
           
 
  不揃いなルックスのヤツらが出てくるぞ~!

出身地なんか    どうでもイイ!
    チープ・トリック
                 
マウンテン(MOUNTAIN)
 1970年、『レスリー・ウェスト/マウンテン』でデビュー。
 メンバーは、レスリー・ウェスト(Vo&G)、フェリックス・パパラルディ(B)、スティーヴ・ナイト(Key)、ノーマン・スマート(Ds)。
 ファースト・アルバム発表後、ドラマーがノーマン・スマートからコーキー・レイングにチェンジ。
 クリームのプロデュースに関わっていたフェリックス・パパラルディが、自らのアイデアを具現化するために結成したのが、このマウンテンである。彼が発掘してきたレスリー・ウェストは、“エリック・クラプトンの再来”といわれ、音楽ファンの注目の的となった。ちなみに、あのマイケル・シェンカーに多大な影響を与えたのが、このレスリー・ウェストである。
 セカンドアルバム、『マウンテン・クライミング』(70年)がブレイク、続く『ナンタケット・スレイライド』(71年)が全米でゴールド・ディスクを獲得。ブルースをベースとし、クラシックやインド音楽のエッセンスを加え、理論的に構築された緻密なサウンドは、全世界で高い評価を得る。
 『悪の華(FLOWER OF EVIL)』(71年)、『暗黒への挑戦(MOUNTAIN LIVE)』(72年)を発表後、1972年に突如解散を宣言。レスリーは、コーキーと元クリームのジャック・ブルースとともにウェスト・ブルース&レイングを結成、3枚のアルバムをリリースする。
 1973年6月に、マウンテンは再結成を果たすが、アルバム2枚を発表してふたたび解散。その後、1978年、1982年と2度にわたって、再結成を繰り返すがアルバムをリリースすることはなかった。また、フェリックス・パパラルディは1976年頃、日本でクリエイションに参加、アルバム1枚を残している。
 1983年6月、フェリックス・パパラルディは、妻ゲイル・コリンズに射殺される。ゲイル・コリンズは、『ナンタケット・スレイライド』のカバー・アートを手がけたことで有名だっただけに、ファンに大きな衝撃を与えた。
 1985年に、マウンテンはふたたび再結成され、アルバム『GO FOR YOUR LIFE』を発表。レスリー・ウェストは音楽界に復帰した。


 小錦みたいな、百貫デブ(太っている人、ゴメンなさ~い)のレスリー・ウェスト。こんな巨体なのに、愛用のエレキは小さなレスポールjr。おかげで、その太い指がいっつも弦に触れてしまうため、独特のハーモニクス・サウンドが生まれたそうだ。(ホンマかいな?)マイケル・シェンカーは、そんなレスリー・ウェストにアコガレまくり、ワウを半開きにしたり、フライングVを股間にはさんだり(?)と、ずいぶん試行錯誤を繰り返しているが、なんてことはない。体重を倍に増やしてしまえば、簡単にあのサウンドが得られるのである。苦労しないで、マウンテン・サウンドを再現したい人。とにかく動かず、ひたすら食いなさい。体重増加あるのみだ。
 そんなレスリー・ウェストだが、さぞや荒っぽいプレイをするかと思いきや、非常に繊細なギター・プレイをするのである。フェリックス・パパラルディの繊細なアレンジと、レスリー・ウェストの優雅なギターが、マウンテンのセールスポイントなのだ。外見とは裏腹に、実にヨーロッパ的な格調の高さをただよわせているのが特徴である。この点、グランド・ファンク・レイルロードとは対極の位置にあるといってよい。プログレッシヴ・ロック好きなアメリカ人の系譜は、このマウンテンからはじまっているのだ。
 フェリックス・パパラルディは、クリエイションに参加していたことがあるので、我々日本人には親しみのある存在だった。それだけに、奥さんに射殺されたと聞いたときはホントにビックリした。彼女が描いた、マウンテンのアルバム・ジャケットを見て、「精神的に病んでる。」と指摘する人がいるが、確かに病的な感じがするよね。
 ちなみに、現在のレスリー・ウェストは、別人のようにやせ細っているらしい。彼にダイエット体験記を書かせたら、きっと売れるだろうな~。(笑)
ボストン(BOSTON)
 1976年、『幻想飛行(BOSTON)』でデビュー。
 メンバーは、トム・ショルツ(G)、ブラッド・デルプ(Vo)、バリー・ゴウドリュー(G)、フラン・シーハン(B)、シブ・ハッシャン(Ds)。
 マサチューセッツ工科大学で、機械工学の修士号を取得したトム・ショルツは、自宅の地下スタジオで、6年かけて1本のデモ・テープを製作した。これが、デビュー・アルバム『幻想飛行(BOSTON)』として、日の目を見ることになる。
 このアルバムは、たちまちヒット・チャートを駆け上がり、7週でゴールド・ディスク、11週でプラチナ・ディスク、16週でダブル・プラチナを記録。全米で約800万枚のセールスをあげる、空前の大ヒットとなった。(チャート最高位:全米3位)
 まったく非の打ちどころのない完璧な音作りと、驚異的なセールスを記録したことにより、グループの将来を危ぶむ声が上がる中、ボストンは2年近く沈黙してしまう。
 しかし、1978年に発表された、セカンド・アルバム『ドント・ルック・バック』は、そんな周囲の不安を一掃してしまう内容で、ふたたび彼等に大きな成功をもたらした。(350万枚を売り、プラチナ・ディスクを獲得)このアルバムのミックス・ダウンに、実に1年2ヶ月もの時間を費やしたという事実は、トム・ショルツの“音”に対する完璧主義ぶりをよく表している。
 この後、サード・アルバム『サード・ステージ』を発表するのは、1986年のことで、大ヒットを記録するとすぐに沈黙するが、その間の長期間にわたってアルバムがチャート・インするという、特異な現象を生み出している。


 CGみたいな音だね。計算された緻密な構図には、ただの1個所もフリー・ハンドの部分がない。そんな感じかな?とにかく一分の隙もない、カンペキな音だね。カンペキ過ぎて、俺には今一歩お近づきになれなかった音だ。ロックには、少しズッコケたところがないと、かわいくないんだよね~。
 大ヒットした「宇宙の彼方へ」で、ピッキング・スクラッチが「ガギュ~ン!」と入るところがカッコよくてね。でも、あの部分も、計算し尽くされた演出の一部なんだ。ピッキング・スクラッチなんて、気分でかましちゃうプレイの最たるモノなんだけどね。ほんとに、トム・ショルツおそるべし!
 それと昔から不思議に思うんだけど、アメリカ人って、このボストンとかトッド・ラングレンに代表される、宅録小僧の王者みたいな音をけっこう好むんだよね。明るいオタッキー(?)が、多いのかな?イメージとしては、SFモノのアメコミって感じ。スポーンみたいなヤツね。
 ま、それにしても、これだけマイ・ペースな活動が許されるってのは、スゴイことだよね。数年に1枚アルバムをリリースして、それが長いことヒット・チャートにランクインされ続ける。考えてみると、これも究極のバンド・スタイルかもしれないなぁ。

 

エアロスミス(AEROSMITH)
 1973年、『野獣生誕』でデビュー。
 メンバーは、スティーヴン・タイラー(Vo)、ジョー・ペリー(G)、ブラッド・ウィットフォード(G)、トム・ハミルトン(B)、ジョーイ・クレイマー(Ds)。
 ファースト・アルバムは、惨澹たるレコード・セールスに終わったものの、その後の精力的なツアーが功を奏し、徐々に全米に名を広めていった。
 1976年に、ロック史に燦然と輝く、名作『ロックス』を発表。「ウォーク・ディス・ウェイ」(前作『闇夜のヘヴィ・ロック』からシングル・カット)のヒットもあり、一躍トップ・グループの仲間入りを果たす。
 その後も、『ドロー・ザ・ライン』(77年)、『ライブ・ブートレッグ』(78年)と続けて名作を発表。当時、全米各地でさかんに開催された、大規模なロック・フェスティバルでは、つねにヘッド・ライナーの位置にあった。
 しかし、1979年にジョー・ペリーがグループを脱退。続いて、ブラッド・ウィットフォードがグループを脱退。以後数年、低迷にあえぐことになる。
 1984年、オリジナル・メンバーで活動を再開。翌85年には、『ダウン・ウィズ・ミラー』を発表。大物の復帰に、全世界の音楽ファンが狂喜した。86年にはシングル「デュード」、87年にはアルバム『パーマネント・バケーション』が大ヒット。その後、トップ・グループとして不動の地位を確立した。


 ジョー・ペリーが好きでさぁ~。服装からなにから、み~んなマネした時期があったよ。俺の40年間の人生で、何度か「あ~、やられた~。」と衝撃を受けたことがあったが、エアロスミスの『ロックス』をはじめて聴いたときは、本当にそう思ったもんだ。俺、こういうのやりたいんだよ~。マジでそう思ったよ。こりゃ、のんびりしちゃおれんわい、と妙にソワソワした。まだ、中3だったけどね。
 エアロスミスの特徴は、リズムが微妙にハネることだ。これは彼等が、ブルースやR&Rだけでなく、ファンクやソウルからも強い影響を受けていることによる。それを裏付けるかのように、『ライブ・ブートレッグ』には、ジェームズ・ブラウンの「マザー・ポップコーン」のカバーが収録されている。この微妙にハネる独特のリズム感が、大ヒット・ナンバー「ウォーク・ディス・ウェイ」を生み出したのだ。
 それにしてもリフを作らせたら、天下一品なのは間違いないよね。『闇夜のヘヴィ・ロック』、『ロックス』、『ドロー・ザ・ライン』の3部作は、カッコイイリフの展示会のようだ。ただの1個も、ダサいリフなどありゃしない。
 もうみんなわかっていることだけど、ジョー・ペリーはブラッド・ウィットフォードあっての存在なんだよね。この2人はペアになっていないと、おもしろくない。お互いの魅力が半減してしまうのだ。ジョー・ペリーは個性の強い調味料で、ブラッド・ウィットフォードはダシとかブイヨンみたいな存在。調味料だけでは料理が成立しないのと同じように、調味料の入らない料理はなんとなくピリッとしない。ジョー・ペリーが脱退したことで、お互いが沈んでしまったのは、当たり前のこと。俺はすぐに、そうなることを予想していた。
 1984年に、オリジナルメンバーで復活したときは、本当に狂喜乱舞したものだが、健康的になり人間関係が円滑になるのと同時に、ミョーなアヤシサまでが抜けていってしまったのは、ちょっと残念だった。『ロックス』のアルバム・ジャケットの“パープルのダイヤ”みたいに、キナクサイ香りがただよっていた時期のエアロスミスがサイコー。マリファナの煙がレコードから匂ってくる感じ。ヤバイ!(笑)
 トルコ石やシルバーのアクセサリー。レザー・パンツにウェスタン・ブーツ。サテンのシャツにインドシルクのスカーフ。左用のストラトキャスター。トーキング・モジュレーター。あ~、もーダメだ。「スイート・エモーション」やりたいよー!。

 

J.ガイルズ・バンド(J.GEILS BAND)
 1971年、『THE J.GEILS BAND』でデビュー。
 メンバーは、ピーター・ウルフ(Vo)、J(ジェローム)・ガイルズ(G)、マジック・ディック(ブルースハープ)、セス・ジャストマン(Key)、ダニー・クライン(B)、ステファン・ブラック(Ds)。
 R&Bやブルースのカヴァーを中心とした、骨太なライブで定評だった彼等だが、レコード・セールスに結びつくには、少し時間が必要だったようだ。
 『モーニング・アフター』(71年)、『“ライブ”・フル・ハウス』(72年)につづく、『ブラッドショット』(73年)が全米10位を記録。ここで、ブレイクするかと思われた。
 しかし、その後のアルバム『招かれた貴婦人』(73年:全米51位)、『悪夢とビニール・ジャングル』(74年:全米26位)、『ホットライン』(75年:全米36位)、『狼から一撃(ライブ)』(76年:全米40位)、『モンキー・アイランド』(77年:全米51位)は、いずれもセールス的には今一歩で、“永遠のB級バンド”などと呼ばれるようになってしまった。また、1977年にはグループ名を、“ガイルズ”と改めている。
 1979年、グループ名をふたたび、“J.ガイルズ・バンド”に戻し、アルバム『サンクチュアリ(禁猟区)』を発表。従来の硬派なサウンドをポップなオブラートに包み、新たな方向性を打ち出した。『サンクチュアリ(禁猟区)』は全米49位にとどまったが、つづいて発表された『ラブ・スティンクス』(80年)が全米18位を記録。ここに至って、やっと本格的に人気が爆発し始めた。
 1981年、アルバム『フリーズ・フレイム』が全米No1に輝き、シングル・カットされた「堕ちた天使」も全米No1ヒットとなり、ついにトップ・グループの仲間入りを果たす。
 1981年から82年にかけて、ローリング・ストーンズのワールド・ツアーのサポートをつとめた彼等だが、3枚目のライブ・アルバム『ショー・タイム』(82年)を発表直後に、グループの看板であったピーター・ウルフがグループから脱退し、ソロ活動を開始してしまう。グループは、ピーター・ウルフ抜きで存続するが、両者共ふたたび成功を得ることはできなかった。


 「堕ちた天使」の大ヒットで、イメージが変わっちゃったけど、昔はエアロスミスをもっとマニアックにしたような感じだったんだよね。なんか、いかにも“B級”って雰囲気が、イキだったな。俺はまず、『“ライブ”・フル・ハウス』にシビレまくったよ。テキトーに荒っぽくて、テキトーにやさぐれていて、テキトーにマニアックで、そのテキトーさが実に心地よかった。あー、この場合のテキトーは、いい加減って意味じゃなくて、本来の適当っていう意味だからね。まさに、ピッタリ、ちょうどいいってことさ。
 で、せっかくメジャーになったと思ったら、次の瞬間に空中分解しちゃうんだから、つくづく“B級”の宿命を背負っていたんだなぁ。なにやら、背中に哀愁がただよってるんだよね。(笑)
 レギュラー・メンバーにブルースハープ奏者がいる、ってのも新鮮だったよ。マジック・ディックは、ピーター・ウルフと並ぶ、グループの看板だからね。『“ライブ”・フル・ハウス』では、ピーター・ウルフが巻舌早口でマジック・ディックを紹介するんだけど、もー鳥肌モンのカッコよさ。
 いつの時代にもこの系統の音を出す連中って、必ずいるんだよね。J.ガイルス・バンドの後にはジョージ・ソログッドなんかが出てきたけど、イギリスにはいないんだ。完全に、アメリカの風土から出てくる音。まさに、アメリカの音がここにあるんだね。

 

ブルー・オイスター・カルト(BLUE OYSTER CULT)
 1972年、『狂気への誘い(BLUE OYSTER CULT)』でデビュー。
 メンバーは、エリック・ブルーム(Vo&G)、アラン・レニアー(Key)、ドナルド・ローザー(G)、ジョー・ブッチャード(B)、アルバード・ブッチャード(Ds)。
 ニューヨークのアンダーグラウンド・シーンから登場した彼等は、都会の狂気をオカルティックに表現し、話題を集めた。ちなみに、当時アラン・レニアーは、パティ・スミスのボーイ・フレンドであった。
 『暴虐と変異』(73年)、『オカルト宣言』(74年)、『地獄の咆哮』(75年)。アルバムを発表するたびに、センスとテクニックをレベル・アップさせ、セルロイドのように無機質な独特の世界を確立した。
 “ヘヴィ・メタル”とは、彼等のサウンドを形容するために、使われ始めた単語である。その後の“ヘヴィ・メタル”とは、かなりイメージが違うが、本来の語源がここにあることを忘れてはいけない。


 まぁ、どちらかというと、ハードロックというよりは、ニューヨーク・パンクスの仲間でしょう。ただ単に、“ヘヴィ・メタル”と呼ばれた元祖だからということで、強引にここへ入れてしまったけど。メンバーの人脈的にもそうだよね。あ、そういえば、パティ・スミスの元彼がここのアラン・レニアーだ。
 最初に使われはじめた頃の“ヘヴィ・メタル”って、“重金属のように無機質なサウンド”って意味だったんだ。いつから、“重くて金属質のサウンド”に変わってしまったのか、俺にはよくわからない。ついでに言うと、このグループのこともよくわからな~い。(笑)あんまし、マジメに聴いていないんだよね~。

 

キッス(KISS) 
 1974年、『地獄からの使者(KISS)』でデビュー。
 メンバーは、ポール・スタンレー(G&Vo)、ジーン・シモンズ(B&Vo)、エース・フレーリー(G&Vo)、ピーター・クリス(Ds&Vo)。
 異様なメイキャップで素顔を隠し、派手にショーアップされたステージを売り物とし、ニューヨークで活動を開始した彼等だったが、人気に火がつくまでには少し時間が必要だった。
 1975年、サード・アルバム『地獄への接吻(DRESSED TO KILL)』からシングルカットされた、「ロックンロール・オールナイト」が全米68位を記録。アルバムも念願のトップ40入り(32位)を果たす。
 続いて発表された『アライブ!~地獄の狂獣』は、彼等のセールス・ポイントである、ステージの魅力を余すことなく収録し、全米9位に輝く大ヒット作を記録。一躍、彼等はトップ・スターにのし上がった。
 『地獄の軍団(DESTROYER)』(76年:全米11位)、『地獄のロック・ファイヤー(ROCK AND ROLL OVER)』(76年:全米11位)、『ラブ・ガン』(77年:全米4位)。人気の上昇と共に、ステージも大がかりなものになり、時代を代表するカリスマへと成長していった。
 1978年に入ると、各メンバーがソロ・アルバムを発表、グループとしての活動を一時休止する。
 1979年、『地獄からの脱出(DYNASTY)』発表後に、ピーター・クリスが脱退。後任に、エリック・カーが加入する。しかし、1982年に入り、今度はエース・フレーリーが脱退、グループは解散の危機にさらされる。
 ここでキッスは、エース・フレーリーの後任としてヴィニー・ヴィンセントを加入させ、さらに、トレード・マークのメイキャップを落として、起死回生を図る。
 素顔をさらした彼等は、『アニマライズ』(84年:全米19位)、『アサイラム』(85年:全米20位)で完全復活に成功。ヴィニー・ヴィンセント~マーク・セント・ジョン~ブルース・キューリックと目まぐるしく交代した、リード・ギタリストも落ち着き、第2の黄金期を迎える。
 ここに至って、キッスにとっては、もはやメイクの助けなどが必要でないことを、世界中に認知させたのである。
 1991年、エリック・カーが急病で他界。
 後任にエリック・シンガーを迎え発表した、『リヴェンジ』(92年)は久々に全米チャート・トップ10入りを果たした。
 その後、1996年になって突如、オリジナルメンバーで、しかもメイキャップ姿で復活
を果たし、大きな話題を集めた。


 俺が生まれてはじめて買ったロックのLPって、キッスの『地獄の軍団』なんだ。
 コワイモノ見たさ、ってヤツかなぁ?ミュージック・ライフのグラビアを見て以来、どうも気になっていたんだよね。で、ラジオから流れてきた「狂気の叫び」が気に入って、すぐレコード店に走ったというワケ。もう、カッコよくって、毎日聴いていたよ。
 でも、ちょっと予想していた音とは違っていた。俺は、もっとドロドロしているというか、オカルティックな音を予想していたんだ。ところが実際は、カラッと乾いた明るい音だった。キッスはオカルティックではなく、コミカルなグループだったんだね。たぶんこれは、当時の音楽ファンのほとんどが誤認していたことだろう。逆に考えると、コミカルだったから、老若男女を問わず幅広い層のファンを獲得できたんだろうね。ドロドロしたサウンドだったら、ここまで成功しなかっただろうな。
 それにしても、これほど長い間、アメリカン・ハードロック・シーンの頂点に君臨し続けるとは、夢にも思わなかったよ。一時期、メーキャップをしていなかった時期があったけど、やっぱキッスはメーキャップしていないと、それらしくないよね。
 中学3年の時に、悪友4人でキッスのメーキャップを試してみたことがあったっけ。化粧品なんか買えなかったから、水彩絵の具で直接顔に描いたんだ。絵の具だから、乾いて時間が経つと、ヒビ割れてきてね。ゾンビみたいな顔で、外をウロウロしていたら、近所のオバサンにお巡りさんを呼ばれちゃったっけ。(笑)ちなみに、俺は“エース・フレーリィ”役だったよ。
 で、その数ヶ月後、彼等の初来日公演を見に、日本武道館へ行ったんだ。顔にメーキャップして、お色気満点のボンデージ・ルックに身を包んだ、ハタチ前後のオネーサンたちがまぶしくってねぇ~。中学生の俺達には、ホントに刺激が強過ぎて、もーたいへんでした。この時の記憶がピンク色がかっているのは、桜の季節のせいだったからではないんだよね。(笑)
 みんな、あのメーキャップをして、コンサートに出かけるよね。メーキャップしている間だけ、俺達は子供に戻ることができるんだろう。日常生活も、悩みも、み~んな忘れることができる時間を、キッスは与えてくれるんだ。ほんの2時間だけ、俺達は現世から逃げ出すことができるのさ。
 ところで、メーキャップをしていると、年齢を感じさせなくていいな、と思っていたんだけど。どうも、そうでもないようだ。ミレニアム公演のヴィデオを見たけど、声の張りとか、お尻の張り(?)とか、ジャンプの高さには、残念ながら年齢による衰えがクッキリと表れていたよ。メーキャップだけが当時と変わらないので、かえって悲惨な感じがしたな。でもそんな状態でも、あそこまでやってしまう、キッスの“プロ根性”は見上げたもんだね。

 

ジャーニー(JOURNEY)
 1974年、『宇宙への旅立ち(JOURNEY)』でデビュー。
 メンバーは、ニール・ショーン(G)、グレッグ・ローリー(Key&Vo)、エインズレー・ダンバー(Ds)、ロス・ヴァロリー(B)、ジョージ・ティックナー(G)。
 ジョージ・ティックナーは、デビュー・アルバム発表後に脱退。
 元サンタナ・バンドのニール・ショーンとグレッグ・ローリー。元スティーヴ・ミラー・バンドのロス・ヴァロリー。そして、ブリティッシュ・ロック界きっての剛腕ドラマー、エインズレー・ダンバーによるスーパー・グループとしてスタート。
 初期は、プログレッシブ・ロックの影響を感じさせるハードなサウンドで、専門家筋からは高い評価を受けたものの、決定的な人気を得るまでには至らなかった。
 しかし、リード・ヴォーカルにスティーヴ・ペリーを、そしてプロデューサーに、クイーンを手がけたロイ・トーマス・ベイカーを迎えて発表された、『インフィニティ』(78年)をきっかけに、彼等の人気は急上昇していった。
 このアルバムでは、それまでの楽器重視の音作りから、ヴォーカル重視の音作りへと方向転換を図っている。それは、ロイ・トーマス・ベイカーの起用により導入された、クイーン直系のコーラス・ワークによって、見事にジャーニー・サウンドへブレンドされた。
 1979年に、エインズレー・ダンバーが脱退。後任には、元モントローズのスティーヴ・スミスが加入。また1980年にグレッグ・ローリーが脱退。後任には、元ベイビーズのジョナサン・ケインが加入。サウンドのポップ化は加速されていった。
 1981年、『エスケイプ』が全米で大ヒットし、ジャーニーは名実共に、アメリカを代表するトップ・スターの座を手に入れた。
 その後、1986年に活動を停止している。


 LPを間違えて買っちゃったんだよね~。
 『インフィニティー』と『エヴォルーション』のジャケットって、モノクロの写真じゃ区別がつかなかったんだよ。カラーだったら、赤いほうが『インフィニティー』で、緑のほうが『エヴォルーション』とハッキリ分かったんだろうけど。おかげで俺は、『エヴォルーション』を買いに行ったのに、『インフィニティー』を買ってしまった。そして、 かなり後になるまでその間違いに気がつかなかったのだ。(笑)
 でも、そんな『インフィニティー』は、俺のお気に入りの1枚になってしまった。ちょうど大学受験の頃、毎日のように聴いていたんだから、世の中わかんないね。
 「ライツ」なんか、今聴いてもキュンとしちゃうなぁ。ロマンティックなハードロック、って感じがサイコーだね。こんな音を出しているグループは、ジャーニー以外にはないからね。それも、この時期のジャーニーに限定されるちゃうんだよ。
 『インフィニティー』にはまだ、初期のマニアックさが残っているんだ。キーボードは、生ピアノ中心だしね。スティーブ・ペリーの加入とロイ・トーマス・ベイカーのプロデュースで、かなりヴォーカル中心のサウンドへ方向転換を図っているけど、まだ実験中って感じなんだな。これが、次の『エヴォルーション』になると、かなりポップになってしまって、もうカンベンしてって感じになっちゃう。俺にとっては、『インフィニティー』までが、ギリギリOKだったかもしれない。
 そう考えると、間違えて『インフィニティー』を買って、かえってよかったんだろうな。こういうのを、怪我の功名っていうんだろうね。

 

モントローズ(MONTROSE)
 1974年、『モントローズ』でデビュー。
 メンバーは、サミー・ヘイガー(Vo)、ロニー・モントローズ(G)、アラン・フィッツジェラルド(B)、デニー・カーマッシ(Ds)。
 ロニー・モントローズは、「フランケンシュタイン」をヒットさせた時期の、エドガー・ウィンター・グループに在籍していたことで有名。モントローズを結成する以前に、全米のギター・キッズの間で、すでに高い評価を獲得していた。
 デビュー・アルバムのヒットに続き、『ペーパー・マネー』、『ハード・ショック』、『ワーナー・ブラザーズ・プレゼンツ・モントローズ』、『反逆のジャンプ』。カラッと乾いた、ポップなハードロックは、まさにアメリカ人好みの音で、1978年の解散までに発表したアルバムはすべて、全米で絶大な支持を得た。
 解散後、サミー・ヘイガーはヴァン・ヘイレンに加入。アラン・フィッツジェラルドは、ナイト・レンジャーに加入。それぞれ、アメリカン・ハードロックのシーンに、多大な貢献を果たした。
 また、ロニー・モントローズは、デニー・カーマッシと共に、ガンマ(GAMMA)を結成。モントローズ・サウンドを更に発展させ、新しいファン層を開拓した。デニーはガンマ解散後、ハートに加入している。
 その後1986年に、ロニー・モントローズは若手を率いて、モントローズを再結成。彼のあくなき挑戦は、いまだに続いている。


 カラフルで、ピカピカのアメ車。モントローズって、そんなイメージがあるんだ。ツルンとした流線型で、やったら速そう。
 ロニー・モントローズって人は、いい曲書くし、ギターもウマイし、ステージ・アクションもキマッているんだけど、カリスマ性に欠けるんだよね。おとなしいというか、地味というか、なぜか“平民”って感じがするんだ。(笑)そのへんによくいる、アンチャンっぽいルックスが災いしているのかな?きっと、イイ人なんだろうなぁ。
 俺はモントローズよりも、その後のガンマをよく聴いたよ。パリス(なつかしー!ボブ・ウェルチだよ。)といっしょで、ハードロックの未来形って感じが新鮮だった。デニー・カーマッシったら、あんまりジョン・ボーナムみたいなプレイをするもんだから、ハートのウィルソン姉妹に目をつけられるんだよ。いくらおとなしいからって、あんましロニー・モントローズをナメんなよ~。
 まぁ間違いなく、1970年代中盤のアメリカン・ハードロック・シーンを代表するグループだね。そういう意味では、サミー・ヘイガーのヴァン・ヘイレン参加は、大正解だったんだよ。

 

TOTO
 1978年、『宇宙の騎士(TOTO)』でデビュー。
 メンバーは、ボビー・キンボール(Vo)、スティーヴ・ルカサー(G)、デヴィッド・ペイチ(Key)、スティーヴ・ポーカロ(Key)、デヴィッド・ハンゲイト(B)、ジェフ・ポーカロ(Ds)。
 若手スタジオ・ミュージシャンとして活躍していた、スティーヴ・ルカサー、デヴィッド・ペイチ、スティーヴ&ジェフのポーカロ兄弟は、ボズ・スキャッグスの『シルク・ディグリーズ』(75年)のレコーディングをきっかけとして、グループを結成。
 デビュー・アルバムからシングル・カットされた、「ホールド・ザ・ライン」は全米5位を記録するヒットとなる。
 1982年に発表された4枚目のアルバム『聖なる剣(TOTO4)』は、プラチナ・ディスクを獲得。シングル・カットされた、「ホールド・ユー・バック」が全米10位、「ロザーナ」が全米2位、「アフリカ」が全米No1を記録。翌年のグラミー賞では、7部門を独占する快挙を成し遂げ、名実共にアメリカを代表するトップ・グループとなる。
 その後、デヴィッド・ハンゲイトがマイク・ポーカロ(ポーカロ兄弟のひとり)に、ボビー・キンボールがファージー・フレデリクセンにメンバー・チェンジ。
 1992年、ジェフ・ポーカロは、『キングダム・オブ・デザイアー』発表直後に、農薬アレルギーによる呼吸不全のため、急死している。


 みんなは意外に感じるらしいんだけど、俺ボズ・スキャッグスって、大好きなんだよね。とくに、『シルク・ディグリーズ』。耳にタコができるほど、よく聴いたもんさ。
 というわけで、TOTOがデビューした時はかなり期待したんだ。でも、期待したほどのものではなかったんだよね~、これが。(笑)
 後期のジャーニーなんかとよく似ている、おシャレでソフティケイトされたハードロックなんだけど、その分なんか物足りなくってね~。ところが、こういう録音方法とか音作りが、1980年前後のロック界の主流になっちゃったんで恐れ入ったよ。俺は、もうカンベンしてくれって感じだった。スティーヴ・ルカサーなんて、レスポールをミキシング・ボードに直でつないじゃって、カワイイ音でプレイするんだよ。レスポールは、マーシャルにつないで耳栓してガーン!だろうが。ダメだよ、こんな弾き方をしちゃぁ。(笑)
 TOTOって、トイレの便器に書いてある、あの“TOTO”のことなんだ。オシッコしながら、グループ名を考えたのかなぁ?(笑)それと、スティーヴ・ルカサーの奥さんって、あの“悩殺爆弾”ランナウェイズのヴォーカリスト、シェリー・カーリーの双子の姉妹だったんだよ。今でも夫婦なのかしら?こんな話しで字数をかせごうとしているってことは、俺はあんまりTOTOのことを好きではなかったんだよね。(笑)というか、1980年前後のアメリカン・ロックって、あんまり好きになれなかったんだよ。だったら最初から、こんな特集組まなきゃよかったじゃねーかって?今更、遅いぜ。おかげで、更新に苦労したんだよ。(笑)これ、ホントの話し。

 

エンジェル(ANGEL)
 1976年、『天使の美学(ANGEL)』でデビュー。
 メンバーは、フランク・ディミノ(Vo)、パンキー・メドウス(G)、ミッキー・ジョーンズ(B)、グレッグ・ジェフリア(Key)、バリー・ブラント(Ds)。
 当初、本国アメリカよりも、日本での人気が先行。サード・アルバム『舞踏への誘い(ON EARTH AS IT IS HEAVEN)』発表後の1977年に、早くも来日公演を行う。しかし、ツアー途中でプロモーターが倒産。彼等は、スケジュール未消化のまま、帰国することになってしまう。帰国後、ミッキー・ジョーンズが脱退。後任に、フェリックス・ロビンソンが加入する。
 この一件以来、日本での人気は下降の一途をたどるが、本国アメリカではシングル「ドント・リーブ・ミー・ロンリー」のヒットをきっかけとして、人気に火がつき始める。
 『LIVE WITHOUT A NET』(日本未発表)は、彼等の最大のヒット・アルバムで、長期間チャートにランク・インされた傑作ライブ。プログレッシブ・ロック風の鍵盤を導入した、ウェスト・コースト生まれのハードロックは、この後の“売れ線アメリカン・ハードロック”のスタイルの基本を確立した。


 相原コージという漫画家が描いた、「コージ苑」というギャグ・マンガに、エンジェルが登場するシーンがあった。漫画化された彼等の姿に、ひらがなで“ぱんきー”(笑)とか“ぐれっぐ”(笑)と書かれると、もうホントにギャグ以外の何者でもなく、数分間笑い転げたのを覚えている。
 やっぱ、このグループ名とあの衣装が、失敗の原因だったんだろうね。
 ということで、リアルタイムでは、ギャグネタにこそしたが、ほとんどマジメに聴いたことがない俺である。
 だいぶ後になって、FENで『LIVE WITHOUT A NET』を聴いて、そのあまりのカッコよさにシビレまくって、「あ~、人を外見で判断しちゃいけないな~。」と反省したが時すでに遅しであった。
 余談だけど、1978年頃、東京のアンダーグラウンド・シーンにメデゥーサというグループがあって、そこに“朱鷺(トキ)”さんというギタリストがいたが、この人がパンキー・メドウスそっくりのコスプレ男だった。俺より10歳ぐらい年上だったけど、今どんなオヤジになっているのか、ちょっと興味あるな~。
 エンジェルって、キッスと同じカサブランカ・レーベル所属だったんだよね。当時のコピーによると、「カサブランカって、悪魔と天使が仲良くいるんだぁ~」だって。いーかげんにせーよ!(笑)

 

ヴァン・ヘイレン(VAN HALEN)
 1978年、『炎の導火線(VAN HALEN)』でデビュー。
 メンバーは、ディヴィッド・リー・ロス(Vo)、エドワード・ヴァン・ヘイレン(G)、マイケル・アンソニー(B)、アレックス・ヴァン・ヘイレン(Ds)。
 デビューと同時に、エドワード・ヴァン・ヘイレンのハイ・テクニックなギター・プレイが、世界中のギター・キッズに衝撃を与えた。とくに、ライト・ハンド奏法においてはパイオニア的な存在で、これ以降のロック・ギターのスタイルを一変させてしまったことは疑いようのない事実である。
 デビュー・アルバム『炎の導火線(VAN HALEN)』は、ミリオン・セラーを記録し、デビューと同時に彼等はアメリカを代表するグループとなった。
 6枚目のアルバム、『1984』(83年)からシングル・カットされた、「ジャンプ」が初の全米No1を記録し、トップ・スターとして不動の地位を確立する。
 その後、1986年に、グループの一方の看板である、ディヴィッド・リー・ロスが脱退するが、後任に元モントローズのサミー・ヘイガーを加え、アルバム『5150』を発表する。このアルバムからシングル・カットされた、「ホワイ・キャント・ディス・ビー・ラブ」が全米3位を記録、王者健在をアピールした。
 サミー・ヘイガーは、1996年にグループから脱退。後任に、元エクストリームのゲイリー・シェローンを迎えるが、1999年に脱退。一時は、ディヴィッド・リー・ロスの復帰が噂されたが、エドワード・ヴァン・ヘイレンが体調を崩したことにより、現在は活動を休止している。


 俺が高校2年の時に、デビューしたんだよなぁ。
 やっぱヴァン・ヘイレンって、出るべくして出てきた、って感があるよね。カリスマ不在の時代に、絶妙のタイミングで登場してきたからねぇ~。時代も彼等の味方をした、ってとこだな。
 ヌケのいい、明るく乾いたサウンド・キャラクター。超絶テクニックを誇るギタリストと、華も毒もあるシンガーがフロントを飾り、重量感のあるリズム・セクションがドッシ リ後方に鎮座する。レッド・ツェッペリン以来の、理想のバンド・スタイルがしっかりと踏襲されているんだ。冗談抜きで、“王道路線”なんだよ。
 エディの、例のティララ、ティララ…っていう、右手トリル。最初は何をやっているんだか、さっぱりわからなかった。「ユー・リアリー・ガット・ミー」のプロモーション・フィルムを見て、はじめて事態を把握した時は、目玉が飛び出すほどビックリこいたよ。で、それをBOWWOWの山本恭司がそっくりにコピーしているのを見て、もう一回目玉が飛び出すほどビックリこいた。それからしばらくの間というものは、どこのコンサート会場に行っても、高校生ギタリストたちが右手でティララ、ティララ…をやっていた。ベンチャーズのテケテケ以来だろうねぇ、こんなに流行した奏法って。
 でも、俺はヴァン・ヘイレンを聴いて、「あ~、もうついていけねー。」と自己の限界を悟ってしまった。こんなテクニシャンが出てくるんじゃ、もうハードロックを追求するのはやめよう、とマジで考えてしまったんだ。おかげで、この後流行したネオ・ヘヴィ・メタルに突入することなく、ニュー・ウェイブ系のアンダーグラウンド・シーンへ飛び込んで行ってしまったというワケ。だから、俺のリードギター的なテクニックって、きっとヴァン・ヘイレンのファースト・アルバムあたりのレベルで進化しなくなったんだろうな。それからというものは、本道を避けて脇道ばかりじゃ~。(笑)
 それから俺は、デイヴ・リー・ロスのキャラクターが好きだな。なんかいかにも、ヤンキーって感じでね。華やかで、適度にお下品で、ロック・ミュージシャンのカガミだよ、この人は。余談だけど、デイヴって、ジャコ・パストリアスもしくは、最近よくTVに出てくるセイン・カミュに似てると思わない?ま、どうでもいいことだけどね。(笑)
 まぁ、とにかくファースト・アルバムが衝撃的だった。これ以降のロックの歴史を、決定づけてしまったと言っても過言ではないでしょう。エディお手製のストラトキャスターも、いちばん最初の白黒ゼブラ模様がいちばんカッコよかったしね。そういえば、みんな自分のギターにビニールテープをぐるぐる巻いて、エディの真似をしていたっけ。
 今も闘病生活を続けているであろうエディ。がんばって、早く復帰するんだぜ。できれば、オリジナル・メンバーに戻ってくれー。

 

テッド・ニュージェント(TED NUGENT)
 1960年代後半から、“アンボイ・デュークス”というサイケデリック・ハードロック・バンドを率いて、活動していたギタリスト。1975年に、エピック・レコードとソロ契約。
 デビュー・アルバム『閃光のハードロック』(75年)で早くも、ゴールド・ディスクを獲得。つづくセカンド・アルバム、『ハードギター爆撃機』(76年)はプラチナ・ディスクを獲得。その後、『傷だらけの野獣』(77年)、『ライブ・ゴンゾー』(78年)とヒット・アルバムを連発。アメリカン・ハードロックの、ニュー・ギター・ヒーローと呼ばれる。
 ノリのいいR&Rを基調としたハードロック・サウンドと、ワイルドなライブ・パフォーマンスが話題となり、1970年代後半に全米各地でさかんに開催された、大規模なロック・フェスティバルでは、つねにエアロスミスと共にメイン・アクトをつとめた。
 1989年に、元スティックスのトミー・ショウとダム・ヤンキーズを結成。いまだ、健在である。


 「カリフォルニア・ジャム2」のフィルムが、印象的だったね。
 夕暮れをバックに、アンプの上にシルエットだけが現れて、おもむろにギターを弾きはじめるんだ。漫才師が持ってるようなでっけーフルアコ(ギブソン・バートランド)を抱えているんだけど、やたら背が高いからそんなに大きく感じないんだよ。それで、物凄ーく狂暴なライブ・パフォーマンスなんだ。
 ケツに尻尾をぶら下げて(AYUの元祖か?)、ペッペッとやたら唾を吐き散らして、ステージ中を暴れ回る。あんまりテッド親分が暴れるもんで、いつもバック・バンドのメンバーは隅っこの方で小さくなっているんだ。カワイソ~に。(笑)で、ライブが終わっても、アンプをフルにして、楽屋でギターをガンガン弾き続けるんだぜ。興奮を完全に鎮めるためには、こうしないとダメなんだってさ~。オソロシー!
 なにしろ、趣味が狩猟ってヤツだからねぇ。もー、並の体力じゃないよ。仲間を食ってでも、生きのびそうなタイプだね。(笑)まさに、野獣!そう表現する以外には、表現のしようがないよ。
 この人がソロになる前にやっていた、アンボイ・デュークスってグループが、また凄いグループでね。延々20分近くも、ギターをフィードバックさせっぱなしだったりして、もー好き放題のやりたい放題。サイケデリック・ミュージックのもっとも極端な例だろね~。でも今聴くと、逆に新鮮かも?
 まぁ、テッド・ニュージェントって、アメリカの荒野をまっすぐに突っ走るハイウェイを走りながら、フルヴォリュームで聴くと気持ちいいだろうね。モーターサイクル・ミュージックって、いうのかな。ズンズンズンズン…、いきなり本能に響いてくるようで、もうサイコーだろうね。
 実は俺、かなりファンだったんだよ。でも、知的な俺のイメージとは、あまり結びつかないだろう?意外な事実!(笑)

 

 
グランド・ファンク・レイルロード(GRAND FUNK RAILROAD)
 1969年、『グランド・ファンク・レイルロード登場(ON TIME)』でデビュー。
 メンバーは、マーク・ファーナー(Vo&G)、メル・サッチャー(B)、ドン・ブリュワー(Ds)。
 1969年、デトロイト・オリンピア・スタジアムにおいて、熱狂的な観客がアンコールを求め続け、メインのレッド・ツェッペリンの出演時間を遅らせてしまったことから、“ツェッペリンを食った”グループとして、一躍勇名を馳せることになる。
 『グランド・ファンク』(70年)、『クローサー・トゥー・ホーム』(70年)、『ライブ・アルバム』(70年)、…。1976年に解散するまでにリリースした14枚のアルバのうち、10枚がRIAA公認のゴールド・ディスクに輝くという、前人未到の記録を残している。なお、9作目『アメリカン・バンド』からは、クレイグ・フロスト(Key)が参加。
 1976年『熱い激突(GOOD SINGING, GOOD PLAYING)』を発表後、グループは解散。その後1981年に、マーク、ドン、デニス・ベリンガー(B)によって、再結成。2枚のアルバムをリリースしたが、商業的な成功を得ることができず、翌年にふたたび解散している。
 “ツェッペリンを食った”という逸話に象徴されるパワフルなステージと、「ロコ・モーション」(74年:全米No1)に代表される、多数のヒット曲を生み出した優秀なソング・ライティング能力は、まさに“アメリカン・ロックの金字塔”といえる。
 1971年7月の来日公演は、もはや伝説と化している。


 ブリブリと歪んだ音で、本能のおもむくままに弾きまくるベーシスト。ピンク・ラメのスーツを着たドラマーは、野獣の如き形相で力まかせにドラムを叩く。そして、鍛え抜かれた上半身もあらわに、安物のエレキギターをマシンガンのように構えたマッチョな若者。“ランボー”の、シルベスター・スタローンではない。コイツがマーク・ファーナーだ。そして、彼の姿こそ、“強いアメリカ”の象徴。まさに、アメリカン・ヒーローの典型なのだ。例の、“レッド・ツェッペリンを食った”エピソードには、そんなアメリカ人の願望が100%表れている。大英帝国の鉛の飛行船がナンボのもんじゃい!我が国の機関車のパワーを思い知れーっ!
 そんな、イケイケ肉体派のグランド・ファンク・レイルロードだが、ソング・ライティングの優秀さが語られることは意外と少ない。はっきり言って、これだけの数のヒット曲を生み出すのは、並大抵の才能ではないハズ。シンプルでカッコイイ曲でなければ、単細胞のヤンキー(注)は熱狂しないのだ。なんでも「カワイー」と感動しまくる、アホ日本人とはワケが違う。お気に召さなければ、すぐブーイングの嵐だ。曲がよくできていなければ、あれだけの人気モノにはなれなかったのだ。そこんとこ忘れないようにヨロシクっ!、と俺は言いたい。
 ドスの効いた演奏で、可憐な「ロコモーション」をカヴァーしたり、「♪オイラ、メリケンのバンドさ~♪」などと大見得をきったり、もー本当にやりたい放題だった70年代のグランド・ファンク・レイルロード。マーク・ファーナーは、稼いだ金をたっぷりつぎこんで、デッケー牧場を買って悠々自適の生活を送っているらしい。雨の後楽園で燃えた先輩たち、あなた方の感動の涙は、ひとつかみの牧草ぐらいにはなっているだろう。こんなジョークを言うと、マジで怒られそうである。雨の後楽園を語る先輩たちの目は、なぜか星飛雄馬の目になってしまうのだ。黒目がヤケドしそうでっせー。(笑)

 (注)ヤンキー。大阪の不良中学生のことではない。本来の意味は、アメリカ人を揶揄した愛称。知らねーヤツは、しっかり覚えとけよー。

 

 
カクタス(CACTUS)
 1970年、『カクタス』でデビュー。
 メンバーは、ラスティ・デイ(Vo)、ジム・マッカーティ(G)、ティム・ボガート(B)、カーマイン・アピス(Ds)。
 ヴァニラ・ファッジを脱退した、ティム・ボガートとカーマイン・アピスは、ジェフ・ベックと共にグループを結成する予定であったが、ジェフの交通事故によりキャンセルとなる。そして、この2人を中心に結成されたのが、このグループ。ジム・マッカーティは、ミッチ・ライダー&デトロイト・ホイールズの剛腕ギタリストとして、すでに名の知れた存在だった。
 『ONE WAY…OR ANOTHER』(71年)、『RESTRICTIONS』(71年)、『'OT'N' SWEATY』(72年)、計4枚のアルバムを発表後、ティムとカーマインはジェフ・ベックとのニュー・グループ(BB&A)結成のため、グループを解散している。
 ロックン・ロールを基調にした、ハードロック・サウンドは信奉者が多かったが、活動期間があまりにも短かったため、大きな成功を得ることができなかった。


 はっきり言って、ジム・マッカーティーって評価が低過ぎると思うよ。
 カクタス時代のジム・マッカーティーのプレイって、“ジェフ・ベック+ジミーペイジ÷2”って感じで、めっちゃカッコイイんだ。あのテッド・ニュージェントが大ファンだったってことからもわかるように、かなり狂暴でギュンギュンしてんだよ。で、リズム・セクションが、“例の2人組”でしょ?かなり強力な音圧だよ、この人たちは。
 俺は、レッド・ツェッペリンの「グッドタイムズ・バッドタイムズ」みたいな、「イーヴル」が大好きでね。聴いたことのない人は、だまされたと思って聴いてごらん。もう、めちゃカッコイイから。シビレまくっちゃうよ。
 なんか、“影の大物”って感じがするんだけどねぇ。あのムサっくるっしールックスが、災いしたのかなぁ~?ヒッピーそのもの、って感じだもんね。(笑)

 

 
チープ・トリック(CHEAP TRICK)
 1977年、『チープ・トリック』でデビュー。
 メンバーは、ロビン・ザンダー(Vo)、リック・ニールセン(G)、トム・ピーターソン(B)、バン・E・カルロス(Ds)。
 セカンド・アルバム『蒼ざめたハイウェイ』からシングル・カットされた、「甘い罠」が全米3位を記録。本国アメリカよりも、日本での人気が先行した。(後にこのアルバムは、ミリオン・セラーとなる。)
 1978年、『天国の罠』を発表、ゴールド・ディスクを獲得。
 翌、79年には、77年の日本武道館におけるライブを収録した、『チープ・トリック at 武道館』が全米で300万枚を売る大ヒットを記録。つづいて発表された、『ドリーム・ポリス』が200万枚をセールス。ダブル・プラチナを獲得。チープ・トリックは一躍、トップ・スターの仲間入りを果たす。
 しかし、その後、トム・ピーターソンがグループから脱退。以降、グループの状態が不安定になり、低迷にあえぐ。
 1988年、トムがグループに復帰、『永遠の愛の炎』を発表。シングル・カットされた、「冷たくしないで」(エルビス・プレスリーのカヴァー)が全米No1となり、見事に復活を果たした。


 初来日公演に行ったんだよ~。俺は、『チープ・トリック at 武道館』の客席にいたんだよ~。でも、ほとんど覚えていない、というかあんまりおもしろくなかったんだよね。
 あれは、俺が高校2年の春、わが校好例の奥多摩湖一周マラソン大会の夜であった。
 俺は、武道館に着いたとたんに、イヤな予感に襲われてしまった。
 会場周辺は女の子だらけ。それは、キッスの時のように色っぽいオネーサンの集団ではなく、中学生以下ぐらいのローティーンばっか。
 俺の予感は、開演と同時に現実のものになった。
 「キャー、ロビーン!」
 「キャー、トムー!」
 会場中に渦巻く黄色い嬌声。いやスゴイのなんのって、どのくらいスゴかったかといえば、演奏がよく聴こえなかったぐらいなんだから、並大抵のモノではなかったのだ。
 俺は、マラソン大会の疲れもあって、途中から椅子の上にへたりこんでしまった。おかげで、いつになく、メンバーひとりひとりを細かく観察することができたのだ。
 まず、演奏担当(?)のふたり。リック・ニールセンとバーニー・カルロス。
 「リックー!」、「バーニー!」という声は、ほとんど聴こえなかったが、この2人の演奏力はかなりのものだった。まず、リック・ニールセン。落ち着きなく動き回っているくせに、ギター・プレイは正確そのもの。そして、驚いたことに、ほとんど指板を見ない。(!)そして、バーニー・カルロス。かなりパワフルで、迫力のある音。シンプルなドラムなんだけど、けっこう修羅場をくぐってきた感じがした。そして、明らかにニコチン中毒。(笑)彼の口からタバコが離れることは、けっしてなかったのだ。
 そして、ルックス担当(?)のふたり。
 いちばんカッコイイと思っていた、トム・ピーターソン。コイツはアタマばっかり振っていて、ちっともカッコよくなかった。ベース・プレイ自体も、たいしたことなかったし、まぁ見かけ倒しってヤツですか?そして最後に、一番人気の、ロビン・ザンダー。コイツは、意外にクールでしたたかそうなヤツだった。ときどき、ミーハーな観客を小バカにしたような仕草を見せていたのが印象の残ったよ。そして、声の迫力が物凄くて、いわゆるカワイコチャンではなかった。写真よりも骨太だったしね。
 ロビン・ザンダーに象徴されるように、このグループはかなりしたたかな連中のようだった。すべて、「わかって、やってんだよ。」という感じで、知能犯の匂いがしたね。
まぁ、そうでもなければ、こんなに長い間、アメリカの音楽シーンに居座ることはできなかっただろうけどね。
 でも俺は、もう一回見たいとは思わなかった。
 いつもなら、パンフレットの他にTシャツなんかも必ず買うミーハーな俺にしては、チープ・トリックの時だけはパンフレットすら買わなかったんだよ。
ま、どうしてあんなに売れたのか、よくわかんないグループだね。(ファンの人、ゴメンね!)

 

ジェイムス・ギャング(JAMES GANG)
 1969年、『YER' ALBUM』でデビュー。
 メンバーは、ジョー・ウォルシュ(Vo&G)、トム・クリス(B)、ジム・フォックス(Ds)。
 ファースト・アルバム発表後、ベーシストがトム・クリスからデイル・バッグズレイ・ピータースにチェンジ。
 セカンド・アルバム、『JAMES GANG RIDES AGAIN』(70年)が、全米チャート20位を記録。続く『THIRD』(71年)からシングル・カットされた、「ウォーク・アウェイ」は、シングル・チャート最高位こそ51位だったが、アメリカン・ハードロックの定番ナンバーとして人気の高い曲。クリームのアメリカ版とでもいえそうな彼等だが、この曲のリフに代表されるように、カントリー&ウェスタンからの影響が強く、これがジェイムス・ギャング特有のサウンドを形成している。
 この後、『JAMES GANG LIVE IN CONCERT』(71年)を発表後、ジョー・ウォルシュがグループを脱退。ジョーはソロ活動を経由して、1975年にイーグルスに参加。
 1973 年、ジョー・ウォルシュの後任として、トミー・ボーリンが参加。『バン』(73年)、『マイアミ』(74年)を発表。1974年に解散している。


 70年代の中盤以降に、米軍基地で演奏をしたことのある人はわかると思うけど、当時のアメリカの若者は、「ウォーク・アウェイ」が大好きだったんだよね~。ノリがピッタリくるんだと思うけど、みんな本当に気持ちよさそうに聴いていたっけ。まさに、アメリカン・ハードロックの定番ナンバーといえる。
 ジェイムス・ギャングは、よくクリームと比較されるけど、彼等ほどドロドロはしてしないよ。むしろ、乾いて、あっさりした感じがするハズ。これは、ジョー・ウオルシュが、カントリー&ウェスタンから強く影響を受けているためなのだ。ただ、カントリーから影響を受けているわりにはレス・ポールが大好きだったりして、グシャグシャに歪んだ音でアルペジオをやったりするから恐れ入ってしまう。彼については、過去に特集をしているので、こちらを読んでくれ
 「ビート・クラブ」に収録されていた、ジェイムス・ギャングの映像、カッコよかったね~。長身のジョー・ウオルシュは、赤いTシャツにレス・ポール。軽やかに「ウォーク・アウェイ」のカッティングをキメる姿が、実にイカしていた。ただ一点、鼻の下のチョビ髭をのぞいて、だけどね。(笑)