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カテゴリー別ハードロック・バンド名鑑(イギリス編)
あなたの好みにピッタリのバンドは、どれでしょう?
YESの場合は
青い矢印、NOの場合は赤い矢印に進んでください。あるバンドに到達します。
到達したバンドのバイオグラフィと編集長のコメントは、ページの下半分にあります。
カテゴリーはあくまでも主観ですから、あまり深く考えないでください。(笑)

 

別格の3組
1970年代に神棚から降りてしまった、エリック・クラプトン
1970年代の幕開けと同時に神棚に上がってしまった、
ジミ・ヘンドリックス
1970年代の終わりと同時に神棚に上がってしまった、
レッド・ツェッペリン

 

START
                       

イギリスが好き!

ブラック・ミュージックが好き!

王道はブルースだ!

各メンバーは好き
勝手にやればいい!
フリー
                     
         

アメリカが好き!

バンドには強力な
リーダーが必要だ!
バッド・カンパニー
   
     
 
   

やっぱソウルでしょ!

男には番長グループのつきあいも必要だ!
  ベック・ボガート&アピス
 
     
     
     
 
   
 

仲良しグループで楽しく行こうよ!
ハンブル・パイ
     
 
 

ノリノリのR&Rさ!

ヨーロッパ調のメロディが好き!
UFO
       
     
 

アメリカっぽいメロディが好き
  モット・ザ・フープル
       

クラシックが好き!

コーラスは大切だ!

ピアノが好き!
クィーン
                       

オルガンが好き!
ユーライア・ヒープ
   
 

ヴォーカルも楽器パートのひとつだ!

各メンバーは好き
勝手にやればいい!
ディープ・パープル
     
       
 
 

バンドには強力な
リーダーが必要だ!
レインボー
   
 

トラッド・ミュージックが好き!

ヒーローは太く短く生きるべきだ!
シン・リジィ
                 

老いても音楽を続けてほしい!
ウィッシュボーン・アッシュ
         
 

ルーツは不明でいい!

アイドルだっていいじゃん!
スイート
         
     

皮や鋲が好き!
ジューダス・プリースト
         

ドロドロしているのが好き!
ブラック・サバス
           
ナザレス
フリー(FREE)
 1968年、『トンズ・オブ・ソブス』でデビュー。
 メンバーは、ポール・ロジャース(Vo)、アンディ・フレイザー(B)、ポール・コゾフ(G)、サイモン・カーク(Ds)。
 翌69年に発表されたセカンド・アルバム『フリー』で、早くもブルースをベースにしたオリジナル・サウンドを確立。ソウルフルなロジャースのヴォーカル。“ハンドビブラートの鬼”といわれた、コゾフのむせび泣くようなギター。シンプルだがパワフルな、カークのドラミング。そして、フリー・サウンドに強い個性を与えた、フレイザーの特異なベース・プレイ。いずれ劣らぬ個性派プレイヤーが、その実力を遺憾なく発揮した。
 1970年、サード・アルバム『ファイヤー・アンド・ウォーター』からシングル・カットされた、「オール・ライト・ナウ」が大ヒット(全英2位、全米4位)。一躍、世界的な人気を獲得する。
 その後、『ハイウェイ』(70年)、『フリー・ライヴ』(71年)と順調にアルバムを発表したが、1971年突如解散を表明。ロジャースとカークは、アメリカ人キーボード・プレイヤーのラビット・バンドリックと、日本人ベーシストの山内テツと共にセッション・アルバム『コゾフ・カーク・テツ&ラビット』(72年)を発表。その後、このラインアップにコゾフを加え、フリーを再結成。『ハートブレイカー』(73年)を発表するが、バンドは自然消滅した。
 なお、ポール・コゾフは、ソロ・アルバム『バック・ストリート・クローラー』を発表後、麻薬中毒による心臓衰弱のため、移動中の飛行機の中で死亡した。(1976年)


 スッカスカで、隙間だらけの音だよね。(笑)
 セカンド・アルバム『フリー』の2曲目、「ソングス・オブ・イエスタディ」のアタマ15秒なんか、アンディ・フレイザーのベース・ラインだけを頼りにして、ポール・ロジャースは歌い始めるんだよ。まぁ、その後ギターが参加しても、チャ~ンなんてコードを流すだけだから、それほど状況は好転しないけどね。(笑)そこで、情感たっぷりに歌い上げる、ロジャースもタダモンじゃないんだな。
 でも、この音の“間”がないと、あのベースもあのギターもあのドラムスも生きてこないんだから、不思議な話しだ。音を詰め込む必要がなければ、無理に隙間を埋めることはない。“間”こそ、音を引き立てるための最高の背景なんだということを、俺に教えてくれたバンドだ。
 とはいえライブでは、フレイザーとコソフ両者の“両手ぶらり”奏法の応酬で、ドラムだけがバッキングという場面が非常に多い。これには、「さすがのロジャースもやりづらいだろうなぁ」と思いつつ、「こんなに“フリー”な演奏が成立するバンドっていうのも貴重な存在だな」と羨ましくなってしまう。
 一般に、コソフはリード・ギタリスト的な評価をされているけど、実はバッキングに使うコードのフォームなんかのほうに、ものすご~く技巧を凝らしているんだよ。この、響きと奥行きを生かしたコード・フォームが、スッカスカで隙間だらけの音によくマッチしているんだな。名曲「オール・ライト・ナウ」のイントロの、なんてことないAのコードにつまずいた経験のある人、けっこう多いんじゃない?普通に押さえたら、あの感じは出ないんだよ。正解を知りたい人は、直メールをおくれ。
 ところで、“両手ぶらり”って何だ?って。KCコミックス「あしたのジョー」、全20巻を読むべし。ジャブは、やや内角を狙い、えぐりこむようにして、打つべし!打つべし!打つべーし!(笑)
バッド・カンパニー(BAD COMPANY)
 1974年、『バッド・カンパニー』でデビュー。
 解散したフリーのメンバーだったポール・ロジャース(Vo)とサイモン・カーク(Ds)を中心に、元キング・クリムゾンのボズ・バレル(B)と元モット・ザ・フープルのミック・ラルフス(G)を加えたスーパー・バンド。
 ファースト・アルバムからシングル・カットされた「キャント・ゲット・イナフ」の大ヒット(全米5位)により、好調なスタートを切る。
 その後、『ストレイト・シューター』(75年)、『ラン・ウィズ・ザ・パック』(76年)、『バーニング・スカイ』(77年)と順調にアルバムを発表。ロジャースのヴォーカルを全面に押し出した、ポップなサウンドで不動の地位を確立した。
 1982年、アルバム『ラフ・ダイアモンド』を発表後、ロジャースがジミー・ペイジと共に、ザ・ファームを結成するためバンドから脱退、バッド・カンパニーは活動を停止した。
 その後、ロジャースを除いたメンバーは、1986年にバンドを復活させている。


 ポール・ロジャースは、考えたんだろうね。「俺の実力で世界を狙うことができるのは、前のバンドの経験でよくわかった。しかし、あまりアクの強いメンバーを揃えると、これからという時に空中分解しかねない。バンドの売りは、ひとつあれば充分だ。俺のヴォーカルだけで充分だ。フフフフフ…。」と。
 そこでロジャースは、番長の座を狙ったんだな。「オマエ、モット・ザ・フープルでブイブイ言っとったようじゃがのぉ…。ここはワシのナワバリじゃ~っ!勝手なマネは許さんぞ。」とミック・ラルフスをシメて、「尊師はもう、助けに来てくれないぞ。尊師のバック・アップのないオメーなんぞ、ナンボのもんじゃい!」とボズ・バレルにクンロクを入れ、「ワシに絶対服従するか?ならば、ついて来~い!」とサイモン・カークを舎弟にし、かくしてバッド・カンパニーは誕生した。(ほとんどフィクションっす。)
 しかし、ロジャースの目論みはまんまと的中し、彼等は世界的な名声を手中に収めたのだ。結果オーライなら、他の3人も文句はいえまい。(笑)
 最近、BSで秘蔵映像が出るたびに、リード・ギターのパートまで独占している、ロジャース番長の姿を見て、こんな想像をしてしまう俺でした。
※クンロク=脅す口調で説教すること。ヤンキー用語辞典より。

 

ハンブル・パイ(HUMBLE PIE)
 1969年、『アズ・セイフ・アズ・イエスタディ』でデビュー。
 メンバーは、スティーブ・マリオット(Vo&G)、ピーター・フランプトン(Vo&G)、グレッグ・リドリィー(B)、ジェリー・シャーリー(Ds)。
 元スモール・フェイセズのスティーブ、元ハードのピーター、元スプーキー・トゥースのグレッグが結成したスーパー・バンドと期待されたが、所属レーベルの倒産によりなかなか本領を発揮することができなかった。
 4枚目に当たる、ライブ『パフォーマンス~ロッキン・ザ・フィルモア』(71年)が話題になり(全米21位)、一躍ライブ・バンドとして脚光を浴びることになった。これ以降、本国イギリスよりもアメリカでの人気が高くなる。しかし、その直後にピーターがバンドから脱退、後任に元コロシアムのデイブ・“クレム”・クレムソンが参加。最高傑作といわれる『スモーキン』を発表、人気を不動のものにする(全米6位)。
 一聴した時に、黒人女性と錯覚を起こしてしまうほど、ブラック・フィーリングあふれるスティーブのソウルフルな声と、ライブで鍛えた荒っぽいブギーは、若い世代を中心に熱狂的な支持層を形成して行った。
 その後、『イート・イット』(73年)、『サンダーボックス』(74年)と順調にアルバムを発表するが、1975年『ストリート・ラッツ』を発表後、解散している。
 スティーブはその後、ソロ活動を経てスモール・フェイセズの再結成に参加するが、1980年ジェリーとハンブル・パイを再結成、アルバム『オン・トゥー・ビクトリー』を発表する。しかし、1991年に自宅が火災を起こした際に、焼死してしまった。


 ジミー・ペイジがレッド・ツェッペリンを結成する時に、最初にヴォーカリスト候補に挙げたのが、このスティーブ・マリオット。ただし、マリオットのマネージャーに、「ウチの若に、ちょっかいかけんじゃねーよ!」とスゴまれて、退散してそうだ。ジミーの意気地なしっ!(笑)
 たしかに、スティーブ・マリオットの声って、スゴイよね。彼に対しては、“黒っぽい”って形容 をしてはいけないんだ。だって、黒人ヴォーカリスト“そのもの”の声、だからね。“ぽい”じゃなくて、“そのもの”なんだよ。 こんな声を持っている白人男性を、他に見たことある?
 俺は、『イート・イット』っていう、2枚組のアルバムが大好きだ。このアルバムは、各サイドが違う表情に仕上げられている。A面は、いわゆるハンブル・パイ・サウンド。前作『スモーキン』の延長にある音だ。B面では、ソウルの名曲をカヴァーしている。そしてC面では、アコースティックな側面を見せ、D面がライブという構成。その中で、マリオットの神髄が堪能できるのは、とーぜんのごとくB面だ。
 特に、アイク&ティナ・ターナーの、「ブラック・コーヒー」がスゴイ!アタマからいきなり、「ブラッ、カフィ!」のシャウトは、ティナ・ターナーもまっ青の迫力だ!あの小柄な体のどこに、こんなパワーが秘められているのか?全身をふりしぼるようにして歌う、マリオットの姿は感動的ですらある。
 ライブバンドとして定評のある彼等のパフォーマンスは、D面で窺い知ることができる。“暴力的”とまで表現したくなるような、強力なパワーの塊は、ロック・スピリッツそのものだ。こんなステージを見ることができたら、オシッコちびっちゃうね。(笑)そして、さりげなく「ホンキー・トンク・ウィメン」をカヴァーする。実は、正統派の“ストーンズ・フォロワー”なんだな、彼等は。
 ピーター・フランプトンのファンには申し訳ないが、 ハンブル・パイはピーターが脱けてから、真価を発揮したんだ。デイブ・クレムソンは、ジョン・ハイズマンにシメられていたコロシアム時代とは、別人のようにイキイキとしていたっけ。全体的にこのバンドは、かなりメンバーの仲がよさそうだね。
 ソウルをベースにしたハードロックのスタイルは、すんごくイカしてると思うけど、案外フォロワーがいないんだ。やっぱ、マリオット級のヴォーカリストがいないと、サマにならないってことかな?
 あんまし、マトモなことが書けなかったな~。(笑)どうも、好きで好きでしょうがないバンドのことは、冷静に語れないよ。もーっ、ほんっとに、ハンブル・パイって、カッチョイーんだよ!(笑)

 

ベック・ボガート&アピス(BB&A)
 ジェフ・ベックが、ヴァニラ・ファッジを脱退したティム・ボガート(B)とカーマイン・アピス(Ds)とのバンド結成を構想したのは、第1期ジェフ・ベック・グループ(69年)の時代まで遡ることになる。しかし、計画はジェフの交通事故で頓挫し、カクタスを経由したティム&カーマインとの、待望のバンド結成が実現したのは、3年後の1972年のことである。
 アルバム『ベック・ボガート&アピス』(72年)でデビュー。
 “クリーム以来の最強ロック・トリオ”、“レッド・ツェッペリンの対抗馬”などと、マスコミから絶賛を浴びたが、ジェフはすでにオールド・ファッションと化したサウンド
にそれほど執着はなく、翌73年に早くも活動を停止してしまった。
 後に、来日公演を収録し、日本のみで発売された『ベック・ボガート&アピス・ライブ・イン・ジャパン73』が海外のファンの間で高い評価を得たり、彼等のアルバムに収録された「迷信」を、作者であるスティービー・ワンダー自身がヒットさせたりと、解散後も何かと話題をふりまいた。
 ジェフ・ベックの長い活動の中で、明確に“ハードロック”をバンドの方向性として打ち出したのは、このBB&A時代のみである。


 このバンドについては、過去の記事にバッチリとコメントを残しているので、それを読んでくれ
 ただ、キライとか言ってるわりには、高校時代に3曲もコピーしてるんだよね。(笑)それを知っている連中から、「BB&Aが嫌いだった?ウソこけ!」と怒られそうなので、誤解されないように一言付け加えておこう。俺は、“ジェフ・ベックの全活動の流れの中における”BB&Aはあまり好きではないが、“単体のハードロック・バンドとしての”BB&Aはそれほどキライではない、ってことさ。ヘリクツこねるな!ってか?(笑)わかるかなぁ~?この微妙なニュアンス。

 

UFO
 1970年、『UFO』でデビュー。
 メンバーは、フィル・モッグ(Vo)、ミック・ボルトン(G)、ピート・ウェイ(B)、アンディ・パーカー(Ds)。
 デビュー直後、本国イギリスやアメリカではたいして話題にならなかったが、日本やドイツでは注目を集めた。
 1973年、ミック・ボルトンが脱退。後任に、ドイツ・ツアー時に彼等のサポートをしたことのある、スコーピオンズのギタリストだった、マイケル・シェンカーが加入。『現象』(74年)、『フォース・イット』(75年)を発表する。マイケルのギターが放つ、ヨーロピアンならではの、哀愁を帯びた美しいメロディ・ラインは、UFOサウンドの確立に大きく貢献した。
 さらに、元ヘヴィ・メタル・キッズのダニー・ペイロネル(Key)を加え、『ノー・ヘヴィ・ペッティング』(76年)を発表。その後、ダニーは脱退し、元サヴォイ・ブラウンのポール・レイモンドが加入。『新たなる殺意』(77年)が全米トップ30に入るビッグ・ヒットを記録する。
 『宇宙征服』(78年)、『UFOライブ』(79年)と順調にアルバムを発表するが、情緒不安定なマイケルの奇行が目立ち、スキャンダラスな話題をふりまくようになる。マイケルは、度重なる失踪の末にバンドを脱退。後任にポール・チャップマンを迎え2枚のアルバムを発表するが、1983年に解散。その後、フィル・モッグは1985年になって、新作『ミスディミーナー』を発表し、UFOを復活させた。


 くれぐれも言っておくけど、“ユー・エフ・オー”だからね。“ユー・フォー”と発音してはいけないよ。ピンク・レディじゃないんだから。(笑)
 マイケル・シェンカーはソロになってから有名になったけど、彼のキャリアにおけるベストはUFO時代でしょう。逆に、UFO側から見ても、バンドの絶頂期はマイケル・シェンカー在籍時でしょう。これ、異論ないよね?
 で、俺の高校時代(1977年~80年)に、「UFOが好きだ!」って言うと、ハード・ロックの“通”と言われたんだな~、これが。(笑)当時は、かなりマニアックな存在だったんだよ。
 「ドクター・ドクター」と「マザー・メアリー」をコピーしたけど、几帳面なギターでね。(笑)運指は小指までの4本を均等に使い、ピッキングはつねに正確なリズムを刻む。エフェクターなんか何も使わなくても、アンプだけでキレイに歪ませることができる。ギターの初心者に、ぜひおススメしたい題材ではあるね。ロック・ギターの基本を、すべて学ぶことができるはずさ。
 1979年に来日した時は、すでにマイケルが脱退していたけど、やたら楽しいコンサートだった。ちょっと、甘酸っぱい想い出があるんだな、これが。(ここをクリックしてごらん?)
 ちなみに、俺がいちばん好きな彼等の曲は、アルバム『現象』に収録されているインスト・ナンバー、「リップスティック・トレイシズ」。なんていうか、透き通るように美しいメロディなんだよね。マイケルってよく、変人だとか嫌な奴だとか言われるけど、こういう曲を書けるってことは、根底は純粋なんだろうなぁ。純粋過ぎる人って、けっこう誤解されやすいからね。
 俺なんか、UFOとウィッシュボーン・アッシュとシン・リジィって言われると、もうどーしよーもなく、「イギリスのバンドだなー!」、って感じがするんだけど。どう思う?

 

モット・ザ・フープル(MOTT THE HOOPLE)
 1969年、『モット・ザ・フープル』でデビュー。
 メンバーは、イアン・ハンター(Vo&P)、ミック・ラルフス(G)、オヴァレンド・ワッツ(B)、ヴァーデン・アレン(key)、デイル・“バフィン”・グリフィン(Ds)。
 ボブ・ディランに影響されたイアンのヴォーカルを中心に、ローリング・ストーンズ“直系”のサウンドを展開していた彼等だが、アイランド・レコードに在籍していた初期は、“ライブは人気が高いがレコードがまったく売れない”状態で、4枚のアルバムはすべて商業的に失敗してしまった。
 一時は解散まで決意していた、彼等を救ったのはデビィッド・ボウイーで、自身のペンになる「オール・ザ・ヤング・デユーズ(すべての若き野郎ども)」をプレゼントし、プロデュースまで申し出た。「オール・ザ・ヤング・デユーズ」は全英5位、全米37位のヒットを記録、グラム・ロックの代表曲といわれるようになった。その後CBSに移籍して、同名のアルバムを発表。(72年)。アルバムも全英21位、全米89位を記録し、一気に起死回生を図った。
 1972年に、ヴァーデンが脱退し、後任に元ラブ・アフェアのモーガン・フィッシャー(P)と、ミック・ボルトン(Org:UFOのオリジナル・ギタリストと同名だがまったくの別人)が加入。翌73年には、最高傑作の呼び声が高い、『モット(革命)』を発表。全英7位、全米35位のヒットを記録。その暴力的なサウンドから、“ヴァイオレンス・ロック”と称される。
 そして、ミック・ラルフスがバッド・カンパニー結成のため、バンドを脱退。後任に元スプーキー・トゥースのルーサー・グロヴナー改め、エリアル・ベンダーが参加。前作の続編というべきアルバム、『ザ・フープル(ロックンロール黄金時代)』を発表する(74年:全英11位、全米26位)。
 その後は、ライブ・バンドとして評価を高めるが、1974年にミックとエリアルが脱退、ブルー・ウィーヴァー(Org)そして、元スパイダー・フロム・マースでデビィッド・ボウイーの片腕といわれた、ミック・ロンソン(G)が加入するが、同年12月にイアン・ハンターとミック・ロンソンがバンドから脱退してしまう。
 残されたメンバーは、バンド名をモットに変更し活動を継続するが、ふたたび成功を得ることはなかった。
 なお、ミック・ロンソンは1993年に肝臓ガンのため、この世を去っている。


 モット・ザ・フープルを、グラムロックに分類しちゃダメだよ!なんてったって、“ヴァイオレンス・ロック”って言われたぐらいなんだから、ハードロックに分類しなきゃ。後期の彼等のステージなんて、イアン・ハンターがギタリストのエリアル・ベンダーのことを、演出と称してボコボコにしちゃって、エリアルったら顔を腫らして鼻血たらしながら、ギターを弾いていたそうだ。こりゃ、SMショー顔負け!バンド内暴力とでも言うのかしらん?(笑)
 今となっては入手困難だろうけど、まったく話題にならなかったファースト・アルバム。これが最高なんだわ。ご存じ、キンクスの「ユー・リアリィ・ガット・ミー」で幕を開けるんだが、これがなんとインスト!ワウをかましたギターと、ガンガンいうピアノがやたら暴力的で、もうスゴイのなんのって。こんなに凶暴なカヴァー・バージョンには、お目にかかったことがありまっしぇん。中期のストーンズがやるようなバラード、「アト・ザ・クロスロード」、そしてディランの影響を感じさせる、「ラフ・アット・ミー」…。じんわりと効き始めてきた頃にB面へ移ると、「ロックンロール・クィーン」!70年代を代表する、ハード・ロックンロールの名曲だ。この一曲のためにモット・ザ・フープルが存在していた、といっても過言ではあるまい。とにかく、カッチョイーんだよ!いかん、また、好きで好きでしょうがないバンドのことを語っているので、冷静さを欠いている。(笑)
 でも、冷静に考えたって 、モット・ザ・フープルのファースト・アルバムはかなり充実していて、同時期にデビューしたレッド・ツェッペリンやフリーあたりと比較しても、それほど遜色はないと思うんだけど。ま、身びいきなしで見ても、フリーのちょい下あたりは確実に狙えたハズよ。じゃ、なぜ彼等は成功しなかったか?って。それは、セカンド・アルバムでコケたからだよ。
 メジャーになったバンドのセカンド・アルバムって、すごくよくできているんだ。どこでも2枚目あたりで、バンドのオリジナル・サウンドを確立させるんだから、それは重要なワケ。で、モット・ザ・フープルはどうだったかといえば、イアン・ハンターなんかがインタビューで言うんだよ、「あれは、サイテーだった。」、なんて。そうそう、こんなことも言っていたっけ、「この間、ひさしぶりで聴いてみたら、マジに恥ずかしかった。」、なんて。作った本人達が恥ずかしくなるようなアルバムを作るなよ~。お願いだから~。(笑)で、セカンド・アルバムがコケたくせに、いっちょまえにサード・アルバムで路線変更しちゃうんだよな、これが。誰もついて来なくなるわなぁ~。
 結局、デビィッド・ボウイーが、「あん時、あの曲をヤツラにやるんじゃなかった。」、と後悔してしまうほどの名曲、「オール・ザ・ヤング・デューズ」をプレゼントされるまで、浮かんでこなくなっちゃったんだよ。もー!
 で、彼等も“ストーンズ・フォロワー”なんだけど、独特のアクの強い不良っぽさがサイコーだったね。暴力事件はしょっちゅうだったし、グルーピーとのゴシップ・ネタにもこと欠かなかったし…。くどいようだけど、ミック・ラルフス(バッド・カンパニー)はここの出身だからね。信じられないでしょう?
 「ロックンロール・クィーン」とハンブル・パイの「カモン・エブリバディ」、そしてフォガット「フール・フォー・ザ・シティ」は、俺にとっての“ブリティッシュ・ハード・ロックンロール”の3大名曲だ。ほんっとに、サイコー!みんなも一度聴いてごらん。俺の言ってることが、少しぐらいは理解できると思うよ。(笑)

 

クィーン(QUEEN)
 1973年、『戦慄の女王』でデビュー。本国イギリスでは、“グラムロックの最終ランナー”などと酷評されたが、日本ではデビュー当時から高い評価を得た。
 メンバーは、フレディ・マーキュリー(Vo)、ブライアン・メイ(G)、ジョン・ディーコン(B)、ロジャー・テイラー(Ds)。
 彼等をハードロック・バンドにカテゴライズすることにはかなり抵抗があるが、初期の2枚のアルバム(『戦慄の女王』、『クィーン2』)で展開されていたのは、まぎれもなく“ハードロック”であった。そのサウンドは、多重録音されたコーラス・ワークとスペイシーなギター・プレイを主体にしたコンテンポラリーなもので、“新世代のレッド・ツェッペリン”などと評されていた。
 翌74年、サード・アルバム『シアー・ハート・アタック』からシングル・カットされた、「キラー・クィーン」がヒット(全英1位、全米12位)。続いて「ボヘミアン・ラプソディ」が、全英チャートで9週連続No1に輝く大ヒットを記録(75年)。一躍、世界のスーパーグループにのし上がり、同曲を収録したアルバム『オペラ座の夜』は、ロック史に燦然と輝く名作となった。
 以降の彼等の活躍は、みなさんご存じの通りであるが、ハードロック色が強かったのは、あくまでも初期のみである。


 初めて、「ボヘミアン・ラプソディ」のフル・ヴァージョンを聴いた時の衝撃が、忘れられない。
 それまでは、AM局でしか聴いたことがなかったんで、中盤の“問題の部分”が登場する前に、いつもフェイド・アウトされていた。おかげで、あんな仕掛けがあるとは夢にも思わず、平穏な日々(?)を過ごしていたというワケだ。
 クィーンは常に、既成概念をブチ壊しながら、バンド・サウンドを確立させて行った。よく、ロック界の異端児などと言われているが、そうではない。逆説的ではあるが、異端であるからこそ“ロック”なのだ。“ロック”とは本来、型にハマることを拒否するものであるハズ。そう考えるとクィーンは、“ロック”の基本理念を体現したバンドということになる。
 だからと言って、俺は彼等を好きになったことは一度もないんだ。(笑)
 高校の時いっしょにバンドをやっていたベースのヤツが、初期のクィーンの大ファンで、遊びに行くたびに、レコードを聴かされたんだけど、どーしても好きになれなかった。なぜ、好きになれなかったのかは、今だによくわかんないんだけどね。でも、ブライアン・メイの使っているギターだけは、なぜか気になっていて、楽器店で見かけるたびに「買おうかなぁ…?」っと悩んだっけ。グレコBM900か、なつかしいなぁ。そうそう、この件を書いた原稿が、『ニュー・ルーディーズ・クラブvol28』に掲載されたんだ。その時に、「好きでもないバンドの記事を書くってことは、とてつもなく苦痛だな。」、とつくづく感じたよ。シンコーのSさん、見てる?ホントの話しだよ。(笑)

ユーライア・ヒープ(URIAH HEEP)
 1970年、『VERY 'EAVY AND VERY 'UNBLE』でデビュー。
 ファースト・アルバムでは、ヘヴィーなブルースロックを展開していたが、翌71年に発表されたセカンド・アルバム『ソールズベリー』で、早くもオリジナル・サウンドを確立。それは、サード・アルバム『対自核』(71年)で、一気に昇華した。「7月の朝」で聴くことができる、叙情的なメロディとヘヴィーな音の融合は、全世界から圧倒的な支持を受けることになる。
 ケン・ヘンズレー(Key)、ミック・ボックス(G)、デヴィッド・バイロン(Vo)
以外は流動的なメンバーだったが、『対自核』発表後に、ゲイリー・セイン(B)、リー・カースレイク(Ds)が参加。『悪魔と魔法使い』(73年)が大ヒットを記録(全米20位)、シングル・カットされた「安息の日々」もヒットし(全米23位)、バンドは黄金期を迎えることになる。
 その後も『魔の饗宴』、『ライヴ・ユーライア・ヒープ』などの名盤を残すが、1974年の全米ツアー中にゲイリー・セインが感電事故を起こし、体調不良のためバンドを脱退
する。後任に元キング・クリムゾンのジョン・ウェットン(B)が参加し、『幻想への回帰』(75年)は全英7位を記録するが、それ以降は低迷にあえぐことになる。なお、セインは脱退直後に死亡している。
 ウェットンは2作で脱退。その後、オリジナル・メンバーのデヴィッド・バイロンも脱退。元ルシファーズ・フレンズのジョン・ロートン(Vo)と元スパイダー・フロム・マースのトレヴァー・ボルダー(B)を迎え、バンドは起死回生を図ることになる。
 『ファイヤーフライ』(77年)、『罪なきいけにえ』(77年)、『堕ちた天使』(78年)といずれもクオリティの高い作品を発表するがセールスに結びつかず、ジレンマから中心人物であるケン・ヘンズレーが脱退してしまう。これ以降激しいメンバー・チェンジを繰り返し1985年に一度解散したが、1987年にミック・ボックスを中心として再結成を果たしている。


 高校のほんの一時期、「パープルではなくヒープを目指そう。」と、本気で考えたことがあった。
 ユーライア・ヒープは、芸術家集団だ。 歌詞からして、他のバンドとは一線を画していた。くだらない色恋沙汰などには目もくれず、ひたすら人間の本質や人類の未来というものを見つめていた。まだ若くて純粋だった俺は、「ロックも音楽なんだから、ミュージシャンは芸術家を目指すべきだ。」、そう単純に考えた。
 あのクィーンが影響を受けたという、コーラスワーク。何層にも重ねられた、カンペキな声の壁だ。その壁に向かって、歪んだ音のオルガンとギターが突進して行く。ナビゲーター役は、ベースだ。その緻密な音の中で神々しい光を放ち、それでいてバンド・サウンドからはみ出すことなく、聴き手に訴えかけてくる。そのトーンは、我々を天上へと誘う。ゲイリー・セインは、モーゼのような存在だ。
 ヒープを目指した俺には、試練が待ち受けていた。あのコーラス・ワークを再現するには、メンバー全員が、“リード・ヴォーカルをとれるぐらいの”、歌唱力を持っていなければならない。アカペラで完璧にハモれるようになるまで、コーラス・ワークを鍛え上げることが要求されるのだ。しかもそれを、“演奏しながら”、こなせるようにならなければ…。
 俺は、毎日のように歌を練習した。そしてついに、自分にまったく歌の才能がないことに気がついた。この世には、いくら一生懸命努力してもできないことがある、ということを知った。かくして、俺のヒープ計画は挫折した。それからしばらくの間、喉がヒリヒリとして、タバコを吸うと咳き込んだ。
 その頃、リアルタイムで、新生ヒープが再起をかけていた。『ファイヤーフライ』、『罪なきいけにえ』、『堕ちた天使』、いずれ劣らぬ秀作を立て続けに発表した。これで、ヒープは再浮上できると、俺は信じていた。しかし、夢はかなわなかった。そして、俺もいつのまにか、ヒープのことなどすっかり忘れてしまった。
 1990年頃、BSでヒープのライブが放映された。それは過去の映像ではなく、最新映像だった。「まだ、続いていたんだ!」俺は、ショックを受けた。もはや、黄金期のメンバーはミック・ボックスだけで、ヒープといえばヒープだが、ヒープでないといえばヒープでない、そんな演奏だった。ショーの最後に、「ウィザード」を演奏した。大ヒットしたアルバム『悪魔と魔法使い』に収録されている、俺がもっとも好きだった曲だ。「ウィザード」のサビのフレーズを繰り返しながら、放送はフェイドアウトして行った。その瞬間、俺は人生のはかなさと宇宙の壮大さを実感した。
 そんな体験ができる音を、俺はユーライア・ヒープの他には知らない。
ディープ・パープル(DEEP PURPLE)
 1968年、『シェイズ・オブ・ディープ・パープル』でデビュー。
 オリジナル・メンバーは、ジョン・ロード(Key)、リッチー・ブラックモア(G)、ニック・シンパー(B)、ロッド・エヴァンス(Vo)、イアン・ペイス(Ds)。
 ファースト・アルバムからシングル・カットされた、「ハッシュ」がアメリカでスマッシュ・ヒットを記録し、サイケデリック・ロックのニュー・フェイスとして注目を集める。
 サード・アルバム発表後に、ニックとロッドを解雇。イアン・ギラン(Vo)とロジャー・グローバー(B)を迎え、『イン・ロック』(70年)を発表。以後、ハードロック・バンドへと変貌を遂げ、音楽的にもセールス的にも黄金期を迎える。
 『ファイアボール』(71年)、『マシン・ヘッド』(72年)、そして来日公演を収録した『ライヴ・イン・ジャパン』(72年)によって、ハードロックのパイオニアとしての評価を決定づける。クラシックの要素を効果的に導入した、リフ中心のサウンドは、様式美の象徴として語られることが多いが、後進に与えた影響には図り知れないものがある。
 『紫の肖像』(73年)を発表後、イアンとロジャーが脱退。一時はバンドの存続が危ぶまれたが、元トラピーズのグレン・ヒューズ(B&Vo)、オーディションによって獲得した新人のデヴィッド・カヴァーデイル(Vo)を後任として、『紫の炎』(74年)を発表。カリフォルニア・ジャムで、伝説的なパフォーマンスを披露し、王者健在をアピールした。しかし、『嵐の使者』(74年)を発表後に、今度はリッチーが脱退。後任に、元ジェームズ・ギャングのトミー・ボーリンが加入。『カム・テイスト・ザ・バンド』(75年)を発表するが、バンド内部の人間関係の悪化により解散。
 1984年に、第2期のメンバーで再結成、数度のメンバーチェンジを経て現在に至っている。
 なお、トミー・ボーリンは、ソロ・アルバム『プライヴェイト・アイズ』を発表後、ヘロイン中毒のため、ツアー中のホテルの一室で死亡した。(1976年)


 「ハイウェイ・スター」を完コピした、高校の頃のことを思い出す。
 ステレオのヴォリュームを上げて『マシン・ヘッド』をかけながら、リッチーのパート
をギターで弾く。「こんな、世界的なプロ・ミュージシャンのプレイをモノにしたんだから、俺はきっとプロになれる!」しかし、そう思っていた高校生は、日本中にたくさんいたのだ。大学に入学して、全国の連中と接して驚いた。“○○(地名)のリッチー・ブラックモア”と呼ばれていたヤツの、なんと多いことか!(笑)
 パープルは比較的音が取りやすいので、アマチュア・バンドがコピーするには最適だ。まず、各パートにはっきり分かれているので、責任分担が明らか。そして、意識的にリズムを崩したり、奏法不明の効果音を出したりという、いわゆる譜面にならない部分が少ない。このため、ちょっとテクニックのある高校生バンドぐらいだと、クリソツに演奏することができるのだ。(あくまでも、“演奏”のみの話しね。)
 この事実は、パープルがどのような状況でも、基本的には“ポップな音”を目指していたことを、端的に証明している。リッチー以上に、明解なフレーズを正確なテクニックで弾き切っている、ジョン・ロードのオルガンの存在が大きいのだ。しかし皮肉なことに、このことが、ジョンの“キーボード・プレイヤーとしての評価”を、一段下げる要因になっている。
 スタジオ・テイクの次には、『ライブ・イン・ジャパン』、そして『メイド・イン・ヨーロッパ』、果ては海賊盤までコピーの触手を伸ばして行く。「あ、ここで、ピック・アップを切り替えたな。」とか、「あ、ここ、ミス・トーン。」、「バック・ステージには、同じ年代のストラトキャスターを、色違いで揃えなきゃ。」、「夏、いくら暑くても、黒い服しか着ないぞ!」(?)…。こんなところまで気になり出したら、もう重傷のパープル中毒患者だ。同じような経験を持っている人、たくさんいるんじゃない?(笑)これは、広いロック界でも、パープルのみに顕著に見られる、不思議な現象だ。
 その後、俺はいろいろな音楽に接してきたので、けっしてパープル一辺倒であったわけではない。しかし、今だにレコードに合わせて、「ハイウェイ・スター」をバッチリ弾くことができる。頭で考える前に、指が反応してしまうのだ。
 いかに、一生懸命練習したか、わかるでしょう?(笑)

 

 
シン・リジィ(THIN LIZZY)
 1971年、『シン・リジィ』でデビュー。
 メンバーは、フィル・リノット(Vo&B)、エリック・ベル(G)、ブライアン・ダウニー(Ds)。グループは、アイルランドで結成された。 
 サード・アルバム『西洋無頼』(73年)を発表後、エリックが健康上の理由で脱退。後任に2人のギタリスト、ブライアン・ロバートソンとスコット・ゴーハムを迎え、『ナイト・ライフ』(74年)を発表。ツイン・リード・ギターによるスタイルを確立する。
 翌75年発表の『ファイティング』からシングルカットされた、「帰らぬおまえはワイルド・ワン」が全米で大ヒット。続いて『脱獄』(76年)から「ヤツらは街へ」が英米で大ヒット。一躍、世界のスーパーグループにのし上がる。
 アイルランド出身らしい、叙情的なメロディラインを、ソウルフルに歌い上げるフィルは黒人との混血。抜群のリズム感に支えられたベースプレイも卓抜していて、彼の存在そのものがシン・リジィであったと言っても過言ではあるまい。
 1978年には名盤、『ライヴ・アンド・デンジャラス』を発表し、ライヴ・バンドとしての実力を見せつけたが、ブライアン・ロバートソンが脱退。フィルの旧友、ゲイリー・ムーアを後任に迎えることになる。
 この後、メンバー・チェンジが激しくなり、短期間で脱退したゲイリーに続いて、ピンク・フロイドのツアー・メンバーだったスノーウィー・ホワイト、元タイガーズ・オブ・パンタンのジョン・サイクスなどが参加した。
 メンバーが不安定になると同時に活動も低迷し、解散宣言をした直後の1986年にフィルが死亡。シン・リジィは消滅した。


 まぁ、誰が何と言おうが、シン・リジィ=フィル・リノットでしょう。彼の人生が、シン・リジィそのものだったんだから。バンドが解散した直後に、後を追うようにして亡くなった彼の姿は、はかなくもまた美しいものだった。生き様がそのまま、小説や劇画の題材になりそう。このバンドには、そんな雰囲気があるんだ。
 フィルって、ギタリストにとっては、この上なくやりやすいベーシストだったと思うよ。けっしてでしゃばらずに、ノリのいいビートを生み出す。そして、ツボを得たフレーズを、ちょっとした音の隙間に放り込む。リッチー・ブラックモアが、ずいぶんとご執心だったのが、なんとなくわかる気がする。
 リッチーは、イアン・ギランとロジャー・グローバーがパープルから脱退した時に、ポール・ロジャースとイアン・ペイスそして、このフィルを誘ってバンドを結成しようとしたそうだ。結局、ポール・ロジャースは、バッド・カンパニーの結成準備に入っていたのでこの誘いを断り、残りの3人がリッチーのプライベート・スタジオで録音を残したといわれている。名づけて、“ベイビー・フェイス”。
 リッチーは、このテープをおクラ入りさせてしまって、いっこうに発表しようとしないが、ファンとしては一度聴いてみたくなるよね?みんなで、リッチーに圧力をかけようか?
 俺にとっての、シン・リジィのベスト・アルバムは『ライブ&デンジャラス』。
 ブライアン・ロバートソンとスコット・ゴーハムのツイン・リードギターの息がバッチリ合っていて、彼等のトレード・マークである哀愁ただようメロディ・ラインがひたすら心地よい。
 曲では、初期のヒット・ナンバー「ウィスキー&ジャー」がおススメ。
 フィルのヴォーカルに、男の哀愁がただよっていて、泣かせてくれるんだなぁ。
 そういえばフィルって、故・松田優作に雰囲気が似ていると思わない?大藪春彦の小説なんか読むと、これってフィルじゃないの?と思える風貌の主人公が登場するんだ。ほんっと、ハードボイルドな雰囲気なんだね~。ルックスからして、物語の主人公なんだよ。

レインボー(RAINBOW)
 ディープ・パープルのギタリストだったリッチー・ブラックモアは、エルフのメンバーと共にソロ・アルバムを製作。その後、ディープ・パープルを正式に脱退し、『銀嶺の覇者』(75年)のリリースを契機に、レインボーとしてデビューを果たす。(当初は、“リッチー・ブラックモアズ”・レインボーと名乗っていた。)
 ファースト・アルバム発表後、ロニー・ジェイムズ・ディオ(Vo)を除く、すべてのメンバーを解雇。以後、激しいメンバー・チェンジを繰り返すことになる。
 セカンド・アルバム『虹を翔る覇者』(76年)から、元ジェフ・ベック・グループのコージー・パウエル(Ds)が参加。リッチー、ロニー、コージーを中心に、ディープ・パープルで確立したサウンドを、よりダイナミックに発展させて行く。
 しかし、アメリカ市場制覇を狙うリッチーは、ロニーを解雇。後任にグラハム・ボネットを迎え、『ダウン・トゥ・アース』(79年)を発表。これ以降、サウンドをポップ・フィールド寄りに発展させて行く。また、このアルバムから、ディープ・パープル時代の旧友、ロジャー・グローバー(B)がバンドに参加する。
 コージー、グラハムが脱退した後に発表された『治療不可』(81年)から、アメリカ人のジョー・リン・ターナー(Vo)が加入。さらに、アメリカ指向を発展させて行く。
 1984年、リッチーとロジャーは、デイープ・パープル再結成に参加。レインボーは消滅した。


 俺は、パープルよりもレインボーのほうが、リアル・タイムだった。
 そして断言するが、リッチー・ブラックモアが自身のスタイルを確立し、世間から認知されたのは、このレインボー時代である。
 『オン・ステージ』に収録されている、「オーヴァー・ザ・レインボー~キル・ザ・キング」のオープニングは、レコード化される前から話題になっていた。初来日の時に、すでにこのパターンを採用していたからだ。多くのギター小僧たちが危険もかえりみず、小型のテレコを会場に持ち込んで、このウワサのオープニング曲を録音したという。
 コージー・パウエルによる、ダイナミックなドラムスのフィル・イン。ギターが入り、キーボードが入り、バンド全体がおそるべきアップ・テンポで走り始めた直後に、ロニー・ジェイムズ・ディオの雄叫び一発!ハードロックのライブ数あれど、ここまで劇的なオープニングは、レインボーの他に聴いたことがない。必殺の、アドレナリン逆流パターンだ。これでヘッド・バンキングをしないヤツは人間じゃねーっ!(笑)
 俺は、高校2年の時に、この「キル・ザ・キング」をコピーした。例のギター・ソロ導入部の、高速アルペジオを人前で披露すると、拍手喝采を浴びたものだ。学校で、楽器店で、俺は「キル・ザ・キング」を弾きまくった。そして、バンドのメンバーのクビを切りまくった。(笑)
 その後、レインボーはメンバー・チェンジを繰り返し、アメリカン・マーケットに進出して行った。しかし、彼等が創造の絶頂にあったのは、間違いなく初期の3枚。リッチー、ロニー、コージーの3頭体制時代だ。この時代の彼等が創り上げた様式が、現在のヘヴィメタルの主流を形成した。クラシックをベースにした、ダイナミックでドラマティックな、ヨーロピアン・スタイルだ。ロニーなんか、レインボー脱退後に加入したブラック・サバスのサウンドまで、このように変えてしまったんだ。おそるべし、レインボーOBの布教の威力。(笑)OBといえば、イングウェイ・マルムスティーンもスティーブ・ヴァイも、レインボーが存在しなかったら、メジャーになれなかったかもしれない。ヤツらは、リッチーに足を向けて寝られないだろう?
 パープル時代のリッチーは、どちらかというとイレギュラーなギタリストという扱いを受けていた。クラプトン・ベック・ペイジ、3大ギタリストに次ぐ、“第4の男”などと言われたものだ。それが、自身のスタイルを貫き通し、ついに高い人気と評価をモノにした。そして今では、リッチーのスタイルは、ヘヴィメタルの定番になった。
 リッチーの闘争の記録がレインボーの軌跡だ。
 無理にディープ・パープルなんか、再結成しなくてもよかったのにー!

 

スイート(SWEET)
 1971年、シングル「ファニー・ファニー」でデビュー。いきなり、全英16位のヒットを記録する。続いて、「ココ」が全英2位の大ヒットとなる。
 ファースト・アルバムは、1973年の『ブロックバスター』。ポップなサウンドと、ルックスの良さで、たちまちトップ・アイドルとしての人気を獲得した。
 メンバーは、ブライアン・コネリー(Vo)、アンディ・スコット(G&Vo)、スティーヴ・プリースト(B&Vo)、ミック・タッカー(Ds&Vo)。
 サード・アルバム『危険なブルヴァード』(74年)からシングルカットされた、「フォックス・オン・ザ・ラン」が全世界で大ヒット。一躍、世界のスーパーグループにのし上がる。
 続いて発表された、『甘い誘惑』(76年)は彼等の最高傑作。再び収録された「フォックス・オン・ザ・ラン」、「アクション」を収録している。
 1979年に、メンバーの音楽的意見の相違から解散しているが、その後ネオ・ヘヴィ・メタル系のバンドが彼等の曲を多数カヴァーし、80年代に入ってから再評価されることになった。


 俺が中学2年当時、文化放送の『電リク75'』 というラジオ番組を毎日欠かさずチェックしていたんだけど、KC&ザ・サンシャイン・バンド、シルヴァー・コンベンション、カーペンターズ、ベイ・シティ・ローラーズ、クィーン、オリビア・ニュートンジョンあたりがチャートの常連で、スィートもよくそこにランク・インされていたんだ。
 大ヒットした、「フォックス・オン・ザ・ラン」と「アクション」がカッコよくってねぇ~。歪んだギターとベースがしっかりと重なって、中音域で独特のドライブ感を生み出しているんだ。ただ、スィートってシングル・ヒットが中心だったせいで、なんとなくアイドル然としたイメージがあって、これ以降はあまり熱心に聴いた記憶がないんだよね。バンド名が違っていたら、もう少しイメージが変わったかもしれないな。スィートって、いかにもアイドルしてる名前だよね。
 1980年代のネオ・ヘヴィメタル・ブームの時に、“クロークス”ってバンドが「アクション」をカヴァーした。スィートはもう解散していたんだけど、いろんな雑誌で若いミュージシャンたちが彼等をほめたたえて、ベスト・アルバムが何枚かリリースされたりしたんだ。その時初めて、このバンドの影響力の大きさを知ったね。単なる、アイドルじゃなかったんだよ。ポップな曲っていうのは、何年経っても新鮮に聴こえるもんなんだね。
 元フリーのポール・コソフが死んだ時に、あのリッチー・ブラックモアが、スィートのコンサートに飛び入りして「オール・ライト・ナウ」を演奏した、という記録が残っているんだけど、このへんに意外な人間関係があるのかな?知っている人がいたら、教えてくれない?あと、「アクション」のシングル盤B面の、「メデューサ」って曲がメチャかっこいいんだけど…。知ってる人いる?

 

ウィッシュボーン・アッシュ(WISHBONE ASH)
 1970年、『光なき世界』でデビュー。
 メンバーは、マーティン・ターナー(B&Vo)、アンディ・パウエル(G&Vo)、テッド・ターナー(G&Vo)、スティーヴ・アプトン(Ds)。
 1972年発表の、サード・アルバム『百眼の巨人アーガス』が大ヒット(全英3位)。
以後、アンディ&テッドのツイン・リード・ギターをセールス・ポイントとして、アメリカ進出を狙う。
 1974年、テッドが脱退。後任にローリー・ワイズフィールドを迎え、『永遠の不安』(75年)を発表。アメリカ市場を意識したため、バンド・サウンドが従来のマイナー進行中心のものから明るいカラーに変化したが、残念なことに徐々に精彩を欠くようになって行った。その後、メンバー・チェンジを繰り返し、1988年にはふたたびオリジナル・メンバーによる復活を果たしている。


 このバンドについては、過去の記事にバッチリとコメントを残しているので、それを読んでくれ
 一言だけ付け加えておくと、ニューヨーク・パンクスの顔、テレヴィジョンのアルバム『マーキー・ムーン』を初めて聴いた時に、「あっ、ウィッシュボーン・アッシュみたいでカッコイイ!」と思った。う~ん、賛同者いないかなぁ?(笑)

 

ジューダス・プリースト(JUDAS PRIEST)
 1974年、『ロッカ・ローラ』でデビュー。
 メンバーは、ロブ・ハルフォード(Vo)、K・K・ダウニング(G)、グレン・ティプトン(G)、イアン・ヒル(B)、ジョン・フィンチ(Ds)。
 翌75年夏の、“レディング・フェスティバル”出演で、一躍注目を浴びる。1980年に、元トラピーズのデイブ・ホーランドが加入するまでは、ドラマーのポジションが不安定で、元ディープ・パープルのロジャー・グローバーがプロデュースをしたサード・アルバム『背信の門』(77年)では、サイモン・フィリップスがドラムを叩いている。 
 いわゆる、“皮ジャンや金属製のリストバンド=ヘヴィ・メタル”、という方程式を確立したのは、ジューダス・プリーストの功績である。そして、彼等が残したアルバムはどれも、“ヘヴィ・メタル・クラシック”と呼べる、質の高いものが多い。中でも、4枚目の『ステンド・グラス』(78年)は、“バイブル”との評判が高い。


 ジューダス・プリーストがデビューした頃のことって、よく覚えてるなぁ。ちょうど、パープルが解散したり、ゼップが活動を休止したりして、音楽雑誌が“次のスターは誰だ?”なんて特集を、さかんにやっていた時期だった。そんな折に、ラジオで彼等の曲を耳にしたんだ。「けっこう、いいじゃん。」と思った俺は、さっそく新作『背信の門』を手に入れた。ロジャー・グローバーがプロデュース、そしてジェフ・ベックといっしょに来日したサイモン・フィリップスがドラムス。悪いワケねぇな、と俺は勝手に決めつけていた。
 『背信の門』を聴き終えた俺は、なんとなく中途半端な気分になってしまった。曲は悪くないんだけどねぇ…。そりゃそうだ。「罪業人」、「ダイヤモンド・アンド・ラスト」、「スターブレイカー」、「最後の夏のバラ」。LP時代のA面は、ジューダス・プリーストの歴史の中でも、粒選りの名曲揃いだ。だけど、なんだろう、この欲求不満は?
 しばらく考えてみて、わかった。犯人は録音だ!この、迫力に欠ける録音のせいだ!せっかく、サイモン・フィリップスが叩いているのに、こんな音の録り方をしてしまっては台無しじゃないか。もっと、レッドゾーンに飛び込む寸前ぐらいの、シンバルの音が割れてしまうぐらいの、録音レベルを上げた音でないと気分が出ないんだなぁ~。
 ジューダス・プリーストが俺好みの音で録音してくれるようになったのは、だいぶ後の『ブリティッシュ・スティール』の頃になってからだった。結局本人たちが、ああいう録音を好んでいたんだろうな。
 ところで、前から思っていたことなんだけど、フライングVを持っているK・K・ダウニングって、マイケル・シェンカーに似てると思わない?20才ぐらいの時に、いっしょにバンドをやっていたヴォーカルのオネーサンが、アルミのケースにこのK・Kのポスターを貼っていたんだけど、俺が「これ、マイケル・シェンカー?」って聞いたら、「なにそれ?」だって。(笑)「オメー、ハードロック好きで、マイケル知らねーなんて、モグリじゃねーか?」と言いたかったけど、小心者の俺はけっして口に出しては言えなかったのだった。

 

ブラック・サバス(BLACK SABBATH)
 1970年“2月13日・金曜日”に、『黒い安息日』でデビュー。
 メンバーは、トニー・アイオミ(G)、オジー・オズボーン(Vo)、ギーザー・バトラー(B)、ビル・ウォード(Ds)。
 同年9月に発表された、セカンド・アルバム『パラノイド』が全英1位を獲得。一躍、レッド・ツェッペリンと並ぶ、ブリティッシュ・ハードロックのトップの座に躍り出た。
 ファースト・アルバムの段階ですでに確立されていた、ヘヴィーなリフを中心としたサバス・サウンドは、後の“ヘヴィー・メタル”の元祖といわれている。また、“黒魔術”をバンドのイメージ戦略に用い、一般市民からの激しい反発を浴びた。
 『マスター・オブ・リアリティ』(71年)、『ブラック・サバスVOL4』(72年)で、サバス・サウンドはいちおう完成形を見せ、その後はアコースティック楽器やキーボードを導入し、よりドラマティックな展開を目指すが、1977年に、オジーがバンドから脱退してしまう。
 後任に、元レインボーのロニー・ジェイムズ・ディオが加入。『ヘブン・アンド・ヘル』(80年)は、“様式メタル”の傑作とされるが、以後激しいメンバーチェンジを繰り返し、現在ではアイオミのソロ・プロジェクトのようになってしまった。
 なお、ロニーの後任に、イアン・ギランやグレン・ヒューズが参加したこともある。
 1990年代に入って、グランジロックの連中が、オジー在籍時の初期サバスを支持したことにより、再び高い評価を受けることになった。


 日本のヘヴィメタ・ファンの間では、ロニー・ジェイムズ・ディオ在籍時の人気が高いようだが、やっぱりサバスはオジー在籍時。それも、初期の4枚に尽きるでしょう。
 平行5度のユニゾン・リフを延々と繰り返す、鋼鉄の演奏陣をバックに、フニャラフニャラとした独自の音程(笑)、というより不安定なメロディで歌いまくる、オジーの圧倒的な存在感!(?)俺は、「ブラック・サバス」を初めて聴いた時の違和感を、けっして忘れることができない。 でも、何度も聴 きこんでいくうちに、初めに感じた違和感がなにやら快感らしきものに変化していったから、不思議なんだよね~。“この刺激、クセになりそう”、って感じ?(笑)
 そしてライブでは、音がものすご~くデカいことで、定評があった。(笑)『BLACK SABBATH “LIVE AT LAST”』では、各曲が始まる直前に、トニー・アイオミのギターがピーピーピーピーとハウりまくる状態を、確認することができる。ギターのヴォリュームを必要以上に大きくすると、ギターから手を離したとたんにハウリングを起こすんだ。このハウり方から察すると、並大抵の音のデカさじゃないはず。初期のサバスのライブを、実際にアメリカで見たことがある人の話しによると、まずそのあまりの音のデカさにぶったまげて、さらにそのあまりに単調な曲の連続で催眠状態におちいって(笑)、気がついた時には2時間まるまる寝てしまった後だったそうだ。後にも先にも、あんなにデカイ音のライブは、経験したことがないって言ってたな。その状況で、眠りを誘われるとはオソロシー。(笑)初期のサバス・サウンドを端的に物語る、貴重な証言である。
 で、トニーといえば、ある時電動ノコギリの事故で、右手の薬指と小指の先(第1関節から上)を落っことしちゃったそうだ(イタそー!)。おかげで、指先に力が入らなくなってしまったため、常識では考えられないくらいの、細~い弦を張っていたことが確認されている。それは、フツーの人だと、指を置いただけで音程が変わっちゃうほどの細さなんだが、この弦の効果で、ものスゴク輪郭のはっきりとした、独特の音が出せるようになったらしい。世の中、なにが幸いするかわからないね。弦が細いと、倍音が出にくくなるからなぁ。そうそう、トニーは左利きだから、右手が弦を押さえる方になるんだね。
 サバス=黒魔術ってイメージがあるだろうけど、これは明らかにカモフラージュ。初期の彼等が、黒魔術を隠れミノにして、“反戦”のメッセージを送っていたことは、あまりにも有名なエピソードだ。そして、ベースにした音楽は、明らかに“ブルース”!このへん、ユーライア・ヒープの初期に近いかもしれない。そういえば、所属レーベルもいっしょだった(ヴァーティゴ)。ちなみに、俺がサバスの音から連想するのは、“産業廃棄物”とか“工場の廃液”。禍々しいことには、変わりないか?(笑)
 そんな彼等、欧米では、日本で考えられないくらいの高い評価を受けていて、こと“ハードロック”の世界では、レッド・ツェッペリンと肩を並べる存在になっているそうだ。たしかに、あのソリッドなリフ感覚は、30年近く経過した現代でも、充分通用するよね。
 ところで、オジーのライブ・パフォーマンスを見たことある?歌の間はマイク・スタンドにかじりついているくせに、演奏のパートになるとアタマだけ振って踊りまくる(?)んだ。かなり、笑えるよ。
 ブラック・サバスの項だけ、やけに(笑)が多いように思うんだが、気のせいかな?(また、笑)

 

ナザレス(NAZARETH)
 1971年、『ナザレス』でデビュー。
 メンバーは、ダン・マッカファーティ(Vo)、マニー・チャールトン(G)、ピート・アグニュー(B)、ダレル・スウィート(Ds)。
 サード・アルバム、『RAZAMANAZ』がスマッシュ・ヒット。同年のメロディー・メーカー誌のポップ・ポールにおいて、ブライテスト・ホープ部門第1位を獲得。一躍、ヘッド・ライナーに浮上した。
 その後、アメリカ市場制覇を狙い、一時サウンドがポップになったが、通算8枚目にあたる『無情の剣』(77年)でふたたび、ハードロック路線へ回帰。翌78年には、元センセーショナル・アレックス・ハーヴェイ・バンドのザル・クレミンソン(G)が加入。最高傑作といわれる『ノー・ミーン・シティ』を発表する。
 以降ふたたびアメリカン・ロック路線を歩むが、ブラック・サバスと対極に位置するような、硬質で乾いたヘヴィー・サウンドは、彼等独自のものである。

 
 正直言って、あまり気合を入れてマジメに聴いたことはありまっしぇ~ん。(笑)俺としてはむしろ、フランク・フラゼッタが描く、強烈なカバー・アートの方に魅了されてしまい、そっちに興味の対象を持っていかれてしまった感じ。なにしろ、『無情の剣』のジャケットを見て、いきなり画集を手に入れてしまったくらいだからね。
 で、カンジンの音の方はどうだって?う~む。カバー・アートほどドロドロしていなくて、むしろカラッと乾いた音だったから、拍子抜けしたってとこかな?簡単なコメントで、すいましぇ~ん。(笑)